370.戦争と文学・海軍(10)島尾は当時軽いうつ症で、なるべく少人数で軍隊生活を送りたいと思った
(カモメ)平易に言うと、全編を通して人間がしっかりと描かれているから、読み始めると、最後まで一気に読ませる魅力を持っていますね。(ウツボ)丹羽はしっかりと人間を見つめて生きてきた人だ。幼少から家庭的に苦労してきたからこそ、文学者として大成した。次は、「出孤島記」(島尾敏雄・新潮社)に移ろう。(カモメ)はい。著者の島尾敏雄は大正六年四月十八日横浜市生まれ。輸出絹織物商の長男ですね。(ウツボ)昭和十五年に島尾敏雄は九州帝国大学法文学部経済科に入学するも、翌年文科に移り、東洋史を専攻した。昭和十九年九月、九州帝国大学を繰り上げ卒業すると、海軍予備学生を志願した。(カモメ)海軍予備学生合格後、島尾は水雷学校と魚雷艇訓練所で訓練を受けた後に昭和十九年十一月、奄美大島の南の加計呂麻島(かけろまじま)の特攻部隊、第十八震洋隊の、特攻隊長として、極限の緊張状態で終戦まで過ごします。(ウツボ)その極限の状況下で、島の娘、大平ミホと恋愛するのだね。(カモメ)そうですね。この極限状況と恋愛体験を昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞しました。「出孤島記」には、大平ミホはNとして登場しますね。(ウツボ)戦後の昭和二十一年三月十日、島尾は大平ミホと結婚する。神戸市立外事専門学校(現神戸市外国語大学)助教授を経て、昭和二十七年東京に移住、作家活動に移る。(カモメ)だが、島尾の女性問題で妻ミホは心の病に冒され、島尾と断絶状態になるのですね。昭和三十年、妻ミホの病気療養のため、奄美大島名瀬市に移住。カトリックの洗礼を受けました。(ウツボ)昭和三十二年、島尾は鹿児島県職員となり、県立図書館奄美分館に勤務しながら、作家活動を行う。(カモメ)島尾敏雄はその後、文学者として、次々に作品を発表し、次のような多数の文学賞を受賞しています。(ウツボ)妻ミホとの断絶の危機を描いた作品「死の棘」で芸術選奨受賞(昭和三十六年)、南日本文化賞(昭和三十九年)、「日の移ろい」で谷崎潤一郎賞(昭和五十二年)。(カモメ)同じく「死の棘」で、読売文学賞(昭和五十三年)、日本文学大賞(昭和五十三年)。日本芸術院賞(昭和五十六年)。(ウツボ)「湾内の入り江で」で川端康成文学賞(昭和五十八年)、「魚雷艇学生」で野間文芸賞(昭和六十年)。(カモメ)昭和六十一年十一月九日、鹿児島市宇宿町の自宅で書籍を整理中、島尾敏雄は脳内出血で倒れます。鹿児島市立病院に搬送されるが意識の戻らぬまま、十一月十二日、同病院で死去しました。享年六十九歳。葬儀はカトリック教会で営まれました。(ウツボ)なお、島尾の妻、島尾ミホ(平成十九年死去・八十七歳)も作家になり、昭和五十年に、「海辺の生と死」で女流作家に贈られる第十五回田村俊子賞を受賞している。さて、「出孤島記」(島尾敏雄・新潮社)の内容を、もう少し掘り下げて見よう。(カモメ)前述しましたが、もう一度述べます。島尾敏雄は終戦に至る特攻部隊、第十八震洋隊での体験と大平ミホとの恋愛を、昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞しました。(ウツボ)後に同じ体験を素材にし、この作品の続きの部分を書き加えて、「出発は遂に訪れず」も発表している。ここでは大平ミホは「トエ」として登場している。(カモメ)「島尾敏雄日記」(島尾敏雄・新潮社)によると、島尾は徴兵検査の結果、第三乙種合格だったので、果たして陸軍の内務班生活に耐えられるか不安だったのです。(ウツボ)そうだね。島尾は当時軽いうつ症で、なるべく少人数で軍隊生活を送りたいと思った。それで、海軍の飛行学生を希望した。パイロットなら多数の人間と軍隊生活を共にすることはないからだ。(カモメ)だが、希望に反して、海軍予備学生合格後、水雷学校と魚雷艇訓練所で訓練を受けた後に、第十八震洋隊という、百八十余名の隊員と、五十隻の震洋艇の特攻兵器部隊の指揮官にさせられてしまったのです。島尾にとっては思いもよらない結果だったのです。(ウツボ)震洋艇は敵の米軍から「スイサイド・ボート」(自殺艇)と呼ばれた緑色小型艇の特攻兵器だった。長さ五メートル、幅一メートルのベニヤ板でできた高速ボートだ。(カモメ)一人乗りで、敵艦船に突っ込んでいき、衝突させる。その瞬間、頭部に装着してある火薬に電路が通じて爆発する仕組みになっていました。(ウツボ)その威力は、二隻の特攻で、一隻の輸送船が撃沈できる程度のものだった。震洋艇の乗員は目標の敵艦船の百メートル手前で、進路を絶好の射角に保ったまま舵を固定し、海中に身を投じてもよいことにはなっていた。