397.陸軍駐在武官(17)この国の人は全部が全部、ロシア語とドイツ語とラトビア語とを同程度に話した
【小野寺信陸軍少将】(カモメ)小野寺信(おのでら・まこと)陸軍少将は、明治三十年(一八九七年)九月十九日岩手県生まれ。仙台陸軍幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校(三一期)、陸軍大学校(四〇期)卒。(ウツボ)陸大教官、参謀本部員、昭和十年十二月ラトビヤ公使館附武官(少佐)、昭和十二年四月エストニア・リトアニア公使館附武官。参謀本部員(中佐)、中支那派遣軍司令部附。昭和十四年六月陸大教官。(カモメ)昭和十五年十一月スウェーデン公使館附武官(大佐)。昭和十八年八月陸軍少将。昭和二十一年三月日本に帰国、復員。戦犯として七月まで巣鴨プリズンに拘留。(ウツボ)戦後は妻百合子とともにスウェーデン語の翻訳、文化普及活動に従事した。昭和六十二年八月十七日死去。享年八十九歳。 (カモメ)「バルト海のほとりにて~武官の妻の大東亜戦争」(小野寺百合子・共同通信社)によると、著者の小野寺百合子さんは、小野寺信陸軍少将の夫人ですね。小野寺百合子さんは一戸寛陸軍少佐の娘で、一戸兵衛陸軍大将の孫ですね。(ウツボ)一戸兵衛(いちのへ・ひょうえ)陸軍大将について述べておこう。一戸大将は弘前藩(青森県)出身。明治二十七年六月第一一連隊大隊長(少佐)として日清戦争に出征。明治二十八年三月歩兵第二一連隊長(中佐)を命ぜられる。明治三十年十月近衛歩兵第四連隊長(大佐)。(カモメ)明治三十七年六月第六旅団長(少将)として日露戦争に出征。明治三十八年三月第三軍参謀長。明治四十年十一月第一七師団長(中将)。(ウツボ)その後第四師団長、第一師団長を歴任し、大正四年十二月には軍歴として最高峰の一つ、教育総監に就任(大将)している。(カモメ)現役を退いてからも、大正九年五月学習院院長に就任しています。その後、明治神宮宮司、帝国在郷軍人会会長等も歴任していますね。昭和六年九月二日死去。享年七十六歳でした。(ウツボ)小野寺百合子さんの祖父は大物の軍人だった。父も軍人だったので、百合子さんは軍人の妻として、しっかりと夫を支える女性だった。(カモメ)昭和十年十月十二日小野寺信陸軍少佐はラトビヤ国帝国公使館附武官に補されました。三十九歳でした。駐在武官に任命された小野寺少佐の家には、洋服屋が呼ばれたのです。(ウツボ)駐在武官は外交官の身分となり、燕尾服、タキシード、モーニング、セミドレスなどを揃えなければならなかったので、大変だった。参謀本部から指定された礼服一式を注文したのだね。(カモメ)洋服は素晴らしい出来で、前後七年に渡るヨーロッパ生活中どこに行っても見劣りすることもなく、着崩れもせず通したということです。(ウツボ)陸軍から海外勤務に出掛ける人は色々いたが、武官だけが妻帯同だった。例えば、モスクワとかベルリンとかのような大武官室にはそれぞれ電信係がいたが、リガのような小さな武官室には補佐官も電信係もいないので、武官夫妻で暗号書の保管から暗号電報作業まですることになっていた。(カモメ)大正七年にソ連から独立したラトビヤは小さな国でしたが、陸軍にとっては重要な国だったのです。ソ連周辺の地からソ連情報を得るため、リガに日本公使館があり、別に武官室がありました。(ウツボ)小野寺少佐は三代目の武官だった。武官室の規模は大きかった。玄関ホール右側の大きな一室が武官事務室で、通勤してくる秘書の机もある。客用の大サロンと小サロン、大きな食堂もあった。(カモメ)家族用は、玄関ホールから長い廊下を通った突き当たりの一廊で、居間、寝室、子供部屋、女中部屋、コック部屋がありました。(ウツボ)使用人も前任者譲りで、事務所の秘書兼タイピストはニーナ・シュワンゲラーゼと言った。家事全般を心得ているのは家政婦兼女中のゼリマ、小野寺夫妻の子二人の責任を持つのはナースの資格を持つワリー、それに女コックのルイゼまでの三人が住み込みで、運転手のシェンクは通勤だった。(カモメ)この家の暖房はペーチカで、台所も昔風の蒔ストーブだったので、シェンクには毎日薪を五階まで運び上げるのも仕事の一つでした。その他に周一度洗濯女が来て、使用人の洗濯まで全部、風呂場で一日がかりの仕事でした。(ウツボ)また、驚いたことに、この国の人は全部が全部、ロシア語とドイツ語とラトビア語とを同程度に話した。(カモメ)本当に驚きますね。語学というものは慣れとはいえ、大したものですね。小野寺夫妻は、パリで武官夫人から言われたように子供は着いたらすぐナースに渡し、百合子夫人は家事と育児から完全に解放されたのです。(ウツボ)早速仕事に取り掛かった。まず小野寺少佐は夫人とともに、佐久間信公使夫妻へ挨拶に行き、それから公使館の役所で館員たちに引き合わされた。