テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:海軍空挺作戦
(カモメ)「落下傘隊長・堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、日米関係が風雲急を告げていた時局に、経済封鎖に追い詰められていく日本にとって、オランダ領東インド(インドネシア)の石油資源の確保が最大の課題でした。
(ウツボ)だからメナドに落下傘部隊を降下させて、石油を確保する、戦略だった。 (カモメ)そうですね。それで空挺部隊を編成しました。当時、海軍落下傘部隊の訓練施設は横須賀の久里浜に近くにあった。 (ウツボ)海軍落下傘部隊の初代隊長、訓練で堀内豊秋海軍中佐は「猫がえりをやろう」と隊員たちに言ったと記されている。 (カモメ)猫は高いところから飛び降り、下が平地でなくても四本足でぴたりと着地する。降下を成功させるために。それを見習おうと提案した訳です。 (ウツボ)無風状態で落下傘で着地すると、この本では、少なくとも2.5メートルの高さから飛び降りるほどのショックを受けると記されている。 (カモメ)だから骨折を防ぐため、どんなに地形の形が悪い場所であっても背中を打たずに、両手両足をそろえて安全な着地をする。これが「猫がえり」ですね。 (ウツボ)そうだね。この堀内中佐はデンマーク体操を採用し海軍で教えた人だ。 (カモメ)一方、陸軍はスウェーデン式体操を取り入れ、陸軍戸山学校で教えていましたね。 (ウツボ)海軍では横須賀の砲術学校が体操の研究機関であり、そこから若手の教官が戸山学校に派遣されて習っていた。だが、このスウェーデン式体操はカカシのようにしゃちほこばっていた。 (カモメ)だから、そのぎくしゃくした動きは海軍には不評だったのです。 (ウツボ)デンマーク体操は玉川学園(東京)の創立者小原国芳が目を着けた。 (カモメ)そうですね。彼は昭和4年に学園教諭の斉藤由理男を一年間デンマークのオレロップ体操高等学校に留学させましたね。 (ウツボ)そう。それで帰国した小原が昭和6年に全国主要都市四十数ヶ所でデンマーク体操の実演と講習会を行なったんだ。 (カモメ)昭和6年の秋、海軍兵学校の体操教官であった堀内大尉は兵学校から出張を命じられ、岡山市で開かれたこの講習会に参加したのですね。 (ウツボ)そうなんだ。これが出会いだった。このあと堀内大尉は知人に「暗夜に光明を見た思いだった。体操にも生命があると悟ったよ」と語っているんだ。 (カモメ)岡山の講習を終えて江田島に帰った堀内大尉は、気がおかしくなったのではないかと言われるほどデンマーク体操に熱中しましたね。 (ウツボ)夜中でも布団を積んで宙返りをしたり、ドタンバタンをやったり、隣近所の教官たちを驚かせた。 (カモメ)また当時堀内大尉は百メートルを十秒台で走ったと言われています。堀内が兵学校の敷地内を走っていると、生徒たちが「おい、見ろよ、タコだぞ、まるでタコ坊主じゃないか」と言い合っていた。 (ウツボ)堀内大尉は当時三十歳だったが、頭がつるりと禿げ上がっていた。 (カモメ)もともと堀内は海軍兵学校五十期として卒業後、パイロットの適性を認められて、大正14年9月霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生に採用されたのです。 (ウツボ)そう飛行機乗りが出発だった。そのときの霞ヶ浦海軍航空隊の司令は小松直幹少将(海兵25期)、副長は山本五十六大佐(海兵32期)だった。 (カモメ)堀内少尉は艦上機班としてパイロットの訓練を受けていました。ある日、他の飛行学生が試運転を始めた時、堀内少尉と福田少尉が両翼を押さえていた。操縦者がスロットルを全速回転にしたとき、突然飛行機が動き出した。 (ウツボ)堀内少尉は車輪止めの位置を直そうと駆け寄った。ところが回転しているプロペラに肩が触れて骨が折れて昏倒した。 (カモメ)入院して二ヶ月後に飛行場にでたところ、教官から「教程の遅れを取り戻すのは無理なので、次期飛行学生に編入させる」と告げられたのですね。すると堀内少尉は「次期編入になるのなら、飛行学生を辞めます」と憤然と去っていったと言われています。 (ウツボ)いわば、留年だね。飛行学生にとっては、プライドの問題があるのだろう。しかし、一方、どうしてもパイロットになりたいのなら、一期遅れてもかじりついてその道を歩む考えもあるはずだが。堀内少尉はそれはしなかった。 (カモメ)それは言えますね。その後堀内少尉は艦船乗り組みを経て、昭和2年12月大尉で海軍砲術学校高等科学生になっています。 (ウツボ)その後、昭和5年12月海軍兵学校教官(体操)に補されている。昭和6年兵学校文官教官の娘と結婚。昭和9年に海軍砲術学校教官、海軍少佐に昇進している。 (カモメ)その後軍艦の乗り組み(砲術長)を経て、昭和15年に再び海軍兵学校教官になりましたね。階級は海軍中佐ですね。 (ウツボ)堀内中佐は昭和16年9月に横須賀鎮守府第一特別陸戦隊司令、そして落下傘部隊長になった。 (カモメ)そして開戦後、昭和17年1月11日、日本軍初の空挺作戦を、落下傘部隊長として行ないました。 (ウツボ)オランダ領東インド(インドネシア)の北セレベス(スラウェシ)の要衝、メナドに降下した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.29 20:49:55
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