テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:海軍空挺作戦
(カモメ)前にも話しましたが、「歴史群像36」(Gakken)の中の「スマトラ空挺作戦」にも、「日本が太平洋戦争を始めた動機は石油資源の確保であった、と言っても過言ではない」と記してあります。
(ウツボ)それはね、昭和15年当時約190万バレルの国内生産量しかない日本は大半を輸入に頼るしかなかったんだ。 (カモメ)そうですね。昭和15年当時、日本の石油輸入量は3716万バレル。その八割はアメリカに依存していました。 (ウツボ)ところが、昭和15年1月26日、日米通商航海条約が失効した。日米関係の急速な悪化にともない、アメリカからの石油輸入量が大きく制限されていったんだね。 (カモメ)そうすると、日本は石油をアメリカ以外から確保しなければならなくなりました。そこで目をつけたのが蘭印ですね。 (ウツボ)そうですね。蘭印とはオランダ領東インドのことだ。現在のインドネシアだ。1602年オランダはこの南洋の地に東インド会社を設立した。 (カモメ)ここを足場にオランダは極東方面に進出し台湾を植民地化したのですね。そして鎖国した日本との交易権を欧州で唯一獲得しました。 (ウツボ)その後オランダは三度の英蘭戦争やナポレオンによる本国占領などで衰退したが、蘭印の領有は存続させていた。 (カモメ)それで、蘭印から石油が産出されたのは、1883年ですね。スマトラで初めて発見されました。 (ウツボ)それ以来東南アジア最大の産油地帯となった。 (カモメ)昭和15年当時蘭印の総石油産出量は6510万バレルです。内訳はスマトラ島4000万バレル、ボルネオ島1900万バレル、ジャワ島610万バレル。 (ウツボ)当時日本は総輸入量の一割の約370万バレルを蘭印から輸入していた。 蘭印は日本にとってまさに宝の島だった。 (カモメ)昭和15年5月10日、ドイツ軍がオランダに侵入、わずか三日で占領しました。オランダ政府はイギリスに亡命。本国を失った蘭印は宙に浮く格好となった訳です。 (ウツボ)日本政府は5月15日第四艦隊(司令長官・片桐英吉中将)にパラオ方面へ進出命令を出し、第四艦隊は出撃したんだ。 (カモメ)第四艦隊は南洋諸島の防備が名目でしたが、蘭印進出を想定していました。 (ウツボ)そうなんだ。だが、第四艦隊は防備に従事するだけで、日本政府はそれ以上の作戦命令を出さなかった。 (カモメ)蘭印に手を出すことにより英米と開戦になることを想定し、慎重になっていたのですね。 (ウツボ)そう。当時、英国と米国との摩擦に神経を尖らせていた。だが、戦史上この判断は失敗だった。イギリスは対ドイツ戦で手一杯で、蘭印のために日本と戦争する余裕は全く無かった。 (カモメ)チャーチルはこのときなぜ日本が蘭印に兵力を送り込まなかったか理解に苦しんだと言われています。 (ウツボ)この時期、アメリカもイギリスの危機を無視することが出来ず、最大限の援助を決したばかりで、太平洋方面で日本が軍事行動に出てもそれに介入しない方針だった。 (カモメ)つまり当時は米英両国とも蘭印のために日本と戦争をする気はなかったと言われています。この時点で日本は最大のチャンスを逃したのですね。 (ウツボ)もっと極端な拡大解釈をすると、日本が第一段作戦で真珠湾攻撃を行なわずに、南方作戦だけだったら、対米開戦は延期か、行なわれなかった。その可能性もあるんだ。 (カモメ)確かに真珠湾攻撃が対米開戦の決定的なものでしたからね。 (ウツボ)まあ、戦史で仮定の話を出すときりが無いから、あまり意味はないのだがね。 (カモメ)空挺作戦の話に戻りましょう。「歴史群像36」(Gakken)によると、昭和16年9月20日、横須賀鎮守府に日本で始めての空挺部隊編成が発令され、館山に最初の空挺部隊が創設されました。 (ウツボ)そうだね。その部隊名は横須賀鎮守府第1特別陸戦隊で、略称は横1特。隊長は四十一歳の堀内豊秋中佐。 (カモメ)落下傘を装着しての初降下訓練は9月26日に開始されました。だが、誤って海上に降下したり、落下傘が開かずに墜事故が多発し、一挙に二十人もの犠牲者を出しました。 (ウツボ)訓練は秘密に行なわれていたため、犠牲者は飛行機事故による殉職とされた。 (カモメ)それでも11月16日、軍令部立会いのもとに降下演習を実施、全員が無事着地を果たしました。 (ウツボ)11月20日、横3特部隊が創設され、横1特750人、横3特750人の部隊に分かれた。 (カモメ)横3特の部隊長は福見幸一少佐が任命されましたね。 (ウツボ)蘭印攻略戦は昭和17年1月11日のメナド侵攻作戦によって開始された。 (カモメ)日本軍としての最初の落下傘部隊による空挺作戦は海軍空挺部隊の横1特が行ないました。 (ウツボ)1月11日、横1特は蘭印セレベス島のメナド近くのランゴアン飛行場に降下した。目的はランゴアン飛行場を制圧し日本海軍の航空基地にすることだった。 (カモメ)蘭印は、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベス(現スラウェシ島)などの主島を中心に北緯6度から南緯11度まで赤道をはさんで広がりその総面積は日本の三倍もあります。 (ウツボ)メナドについて話しておこう。現在はインドネシア共和国北スラウェシ州メナド市となっている。スラウェシ島(旧セレベス島)の最北端にある。 (カモメ)周辺の海岸は広大な珊瑚礁があり、世界中のダイバーが集まるダイビングスポットですね。 (ウツボ)インドネシア共和国は人口2.19億人だから日本の約2倍弱だ。首都はジャカルタで約870万人。約九割がイスラム教だ。 (カモメ)戦前はオランダが約40年に渡って植民地にしていましたが、日本軍がスマトラ、メナドなどに上陸してオランダ軍を制圧して占領しました。終戦の年、1945年にインドネシアは独立しましたね。 (ウツボ)そうだね、独立した。それで、終戦以前に、スカルノはインドネシア独立のために日本軍に協力した。終戦後、オランダは再びインドネシアを植民地にしようとしたが、1945年8月17日、スカルノとハッタの二人は「インドネシアの独立宣言」を行なった。 (カモメ)これに対してオランダは軍を派遣してインドネシア独立戦争が始まりました。 (ウツボ)しかし1949年12月のハーグ協定によりインドネシアはオランダから主権委譲を受け独立国家としての第一歩を踏み出した。 (カモメ)そのようないきさつから、スカルノが大統領に就任、長期に渡り指導者として君臨しましたね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.29 20:49:18
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