テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:潜水空母・伊401
(カモメ)晴嵐攻撃隊十二名の搭乗員は、伊四〇一搭乗が、一番機が浅村大尉と廣野少尉、二番機が高橋上飛曹と野呂上飛曹、三番機が津田上飛曹と谷口上飛曹でした。
(ウツボ)伊四〇〇搭乗が、一番機が高橋少尉と吉峰大尉、二番機が渡辺上飛曹と島岡飛曹長、三番機が奥山上飛曹と渡辺上飛曹だった。 (カモメ)ウルシー攻撃隊は神龍特別攻撃隊と呼ばれました。これは有泉龍之助司令の一字をとったもので、司令自ら名づけたのですが、正式の艦隊命令には認められていなかったのです。 (ウツボ)暗黙の了解があったようだ。有泉司令も南部艦長もこの作戦を特攻であると正式に命じたものではなかった。だが伊四〇一の飛行長・浅村敦大尉や伊四〇〇の飛行長・吉峰徹大尉らは特攻と思っていた。 (カモメ)そうですね。浅村大尉は戦後、「パナマ運河の図上演習のころから、搭乗員は少なくとも私は特攻であることを心中に誓って、動揺がなかった」と語っています。 (ウツボ)壮行会を終えて、醍醐忠重中将ら三人は汽車で帰途についた。汽車は秩序も無く混乱していて、二等車、三等車の区別も無かった。窓から出入りする者もいた。 (カモメ)海軍中将の軍服を着た醍醐司令長官の座席のひじ掛けに、尻をもってきて、断りひとつ言わず、平気の平左で腰掛ける労働者風の男もいたそうです。 (ウツボ)そのとき、井浦大佐は祖国の運命も末期に近づいたことが感ぜられて、慨嘆に堪えなかったと記しているね。 (カモメ)有泉司令の指揮する伊四〇一、伊四〇〇は昭和二十年七月二十日、舞鶴を出港、七月二十一日、大湊に入港しました。 (ウツボ)ここで、搭載機晴嵐の塗り替え作業が行われた。晴嵐の塗り替えは、晴嵐を前甲板に引き出し、晴嵐の日の丸を米軍の「星」のマークに描き替えたのだ。 (カモメ)さらに機体の色も米軍同様の銀色に塗り替えました。晴嵐を米軍機のように塗り替えたのです。その理由を浅村攻撃隊長は次の様に述べています。 (ウツボ)読んでみよう。「ウルシー攻撃はやり直しのきかない千歳一遇の攻撃である。ウルシー突入の場合、恐らく上空には米の直衛戦闘機がいて襲われるに違いない」 (カモメ)次を読みます。「たまたま、晴嵐はちょっと目にP51に似ていたが、P51は単座、晴嵐は複座なので直ぐ判別されるにしても、米機がいざ攻撃しようというとき、晴嵐の星のマークを見て、おやっと思って、一瞬たじろぐだろうということを期待した」 (ウツボ)続けて読むよ。「そうすれば、この一瞬の隙に一機でも二機でも米艦に突入することができると考えた。やり方としては国際法上にも触れるし、卑怯な方法ではあった」 (カモメ)最後を読みます。「だが、やり直しのきかない攻撃を何とか成功させたいという切羽詰った気持ちだった。末期的な攻撃法だったが、当時としては真剣だった」 (ウツボ)それだけ、成功の確率が低いことを搭乗員は知っていた。 (カモメ)また、伊四〇一の斉藤七郎信号長によると、この晴嵐の塗り替え作業中、大湊航空隊の飛行機が飛来し、潜水艦上空を旋回したので、整備員が機体に腹ばいになって「星」のマークを隠すなど、大慌てをしたということです。 (ウツボ)七月二十三日、伊四〇〇が午後二時、伊四〇一が午後四時、大湊を出撃した。この大湊出撃の日時については二十二日説、二十三日説、二十四日説、二十六日説と様々ある。 (カモメ)これは終戦で拿捕されたとき、各艦とも航海日誌を始め公私を問わず一切の書類、日記等を海中投棄したため、戦後は各人の記憶に頼るしかなかったため、諸説が出てきたのですね。 (ウツボ)午前二時頃、闇夜だったが、伊四〇一の前方一〇〇〇メートルのところへ水柱が上がり、大きな音を聞いた。津軽海峡の東口をまだ出ていない地点だった。 (カモメ)ただちに潜航したが、北海道側で閃光を見たという見張員がおり、見方打ちでした。北海道の海峡防備部隊だったと言われています。有泉司令は憤慨して、大湊に電報で抗議しました。 (ウツボ)その後、伊四〇一と伊四〇〇は、敵機動部隊や船団に遭遇したが、任務達成までは極秘だったので、攻撃は行わなかった。 (カモメ)その間、絶え間なく西へ西へと移動する連合軍の艦艇や航空機の大集団に遭遇し、そのものすごい量に圧倒され、日本の運命も予見されるように感じたそうです。 (ウツボ)だが、南部艦長を含め、二〇四名の乗員は誰一人として日本の降服など思いもよらず、文字通り滅私奉公、会敵のため潜航時間が長くなり、進出が遅れるのを心配していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.15 09:12:23
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