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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2010.03.12
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カテゴリ:ソロモン海戦
(ウツボ)もし第八艦隊が敵輸送船団を攻撃し、沈めていれば、その後のガダルカナル島における日本陸軍とアメリカ上陸軍の戦いも日本軍に有利に展開していた可能性がある。

(カモメ)第八艦隊が敵輸送船団攻撃を放棄したことについては当時から賛否両論があって、戦後も、司令官・三川中将の消極的な判断を批判する者もいましたね。

(ウツボ)それはね、当時、旗艦鳥海艦長の早川幹夫大佐(海兵四四・海大二六)が、「反転して敵輸送船団撃破のため、再突入すべきだ」と、三川司令官に進言したとき、三川司令長官は、何も答えなかった。他の幕僚も沈黙を守ったままだったと言われているんだ。

(カモメ)他の幕僚とは、参謀長・大西新蔵少将、首席参謀神重徳大佐、それに、大前敏一中佐(海兵五〇・海大三二恩賜)、安藤憲栄中佐(海兵五一)、橋口喬中佐(海兵五六)、木内三郎少佐(海兵四四)、森虎男少佐(海兵五二)らの参謀ですね。

(ウツボ)そうだね。早川艦長は二度繰り返して進言したと言われている。だが、高速で疾走中の、旗艦鳥海の暗い艦橋で、轟々とエンジンの音だけが鳴り響いており、誰も何も発言せず、沈黙が続いたというんだ。早川艦長の進言は黙殺された。

(カモメ)こうして第八艦隊はガダルカナル島に揚陸作戦途中の敵輸送船団を見逃すことになったのですね。

(ウツボ)そうだよ。なお、早川艦長のこの進言に対して、首席参謀・神重徳大佐が「敵空母の追跡を受ける危険性が大きい」と強く反対したという話もある。

(カモメ)重巡洋艦加古(一〇五〇七トン・乗組員六三九名)の艦長、高橋雄次大佐は戦後、「鉄底海峡」(高橋雄次・毎日ノンフィクション)という本を出版していますね。

(ウツボ)そうだね。その中に、鳥海の早川艦長が進言したことに関して、高橋雄次大佐は次の様に述べている。

(カモメ)読んでみます。「早川艦長は私と同級の親友で、水雷出身の重厚大胆な歴戦の勇士である。戦死した彼に当時のことを聞くことはもはやできないから、私の推量を一言許されたい。『帰るのですか』との反問は、その時点では適切だったかも知れないが、艦長というものは、普通なら司令部に対して、こんな差し出口をしないものだ。彼の性格から考えても、この一言は、よほどやむにやまれぬ所信によるものではなかったか」。

(ウツボ)早川艦長はその後、昭和十八年に少将に進級し、第二水雷戦隊司令官に任じられた。昭和十九年十一月十日、オルモック湾で多数の敵機の攻撃を受けて、旗艦島風の艦上で戦死した。戦死後中将に昇進している。

(カモメ)三川中将は戦後もこの件に関しては、沈黙を守っていますね。これは、責任の全てを自分が引き受ける態度だ、という人もいますが、どうなんでしょうか?

(ウツボ)それについては、戦後、三川中将はごく内輪の話として、次のようなことを語ったと言われている。それは、三川司令長官が内地を出発する時、永野修身軍令部総長から「無理な注文かもしれないが、わが国は、工業力が弱いから、艦の消耗については極力気をつけてもらいたい」と言われたというものだ。

(カモメ)昭和十七年八月十日、第一次ソロモン海戦を終えて帰還中に、米国潜水艦S-44から魚雷攻撃を受け沈没した重巡洋艦加古(一〇五〇七トン・乗組員六三九名)の艦長、高橋雄次大佐は、前述のように、「鉄底海峡」(高橋雄次・毎日ノンフィクション)を出版していますが、その本の中に、次の様な事実が述べられています。

(ウツボ)重巡洋艦加古が沈没した時、乗組員三十四名は死亡したが、高橋艦長をはじめ、その他の乗組員は救助された。

(カモメ)救助された後、高橋艦長はラバウルの第八艦隊司令部に報告に訪れましたね。出頭し、報告する高橋艦長に対して、三川司令長官は終始一言も発言せず、かたくなに沈黙していました。それは異様な光景だったといわれています。

(ウツボ)重巡洋艦を失った、高橋艦長に対する、怒りだったのだろうね。前述のように、三川司令長官は永野修身軍令部総長から「艦の消耗に気をつけてもらいたい」と言われていたから。

(カモメ)そうとしか考えられませんね。艦を失った艦長の心情を思えば、上司としてねぎらいの言葉をかけてやるのが武士の情けというものでしょうが、そうしなかった。

(ウツボ)三川中将は戦後も沈黙を守り通し、昭和五十六年二月二十五日、東京の自宅で死去している。

(カモメ)第一次ソロモン海戦では、米豪軍の戦死者千二十四名、負傷者七百八名でした。日本軍は戦死者三十四名、負傷者五十一名でした。

(ウツボ)ガダルカナルの戦いではアメリカ軍の戦死者は、陸上よりも海上のほうが多かった。

(カモメ)この第一次ソロモン海戦の行われたのは、シーラーク海峡と呼ばれるサヴォ島周辺の海です。だが、前にも述べましたが、この海は後に、アイアン・ボトム・サウンド(鉄底海峡)と呼ばれるようになりましたね。

(ウツボ)それは、この第一次ソロモン海戦を皮切りに、以後、日本、アメリカ、オーストラリアの艦船が五十隻以上もこの海底に沈んだ。鉄の墓場となったからだ。








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最終更新日  2015.08.09 22:50:45


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