卓球教室でも、練習の前に、練習ができることの感謝と、3.11の災害で亡くなったり行方不明になっている人たちの冥福を祈って黙祷をした。
あれだけの大きな自然の脅威と、原子力の恐怖の前では、何をしても無力、何をしても偽善でしかない忸怩たる思いだ。行動しなければとの脅迫概念と、行動してもやり切れたのかという偽善的な思いが、してもしなくても残る。オゾンホールにしろ温暖化の問題にしろ、複合汚染にしろ、地球のアチコチに埋め込まれた核爆弾にしろ、これだけ自然を破壊し、奢った文明の上に胡座をかいている人類のひとりである自分は、自然や神(もし、いるとしたらだが)からどんな罰を受けても文句はいえないのだろうと思う。もう地球も後戻りはできないところまできているのは明白だ。その地球号から自分一人だけ降りることもできない。
だからある意味、その濁ったままの運命を享受するしかない。ただいつ裁かれてもあまりこの世に未練を残すような生き方をしないように、かといって肩肘張って「~ねばならない」で雁字搦めになって他人に向かってシュプレヒコールをあげるような不満居士にもなりたくない。もう死語かもしれないが、「恬淡」として毎日を過ごしたい。背伸びせず、感情に流されず、やれることはやって、できないことはできなくてもしかたがないから、他人を恃のまず、他人を恨まず、できれば静かに笑って生を閉じたいものだ。誰に問うでもない、強いるでもない、自分だけのちょっとした決意だ。
春彼岸古き映画を妻と見る 不濁
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最終更新日
2012/03/11 09:05:48 PM
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