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2011.08.24
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カテゴリ:宮城
宮城県北の不自然な東北本線のルートについて。前回(宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日))は、小牛田や田尻など、敷設が実現した地域の町史を読んでみた。

今回は、外された地域の公的文献を見てみよう。

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涌谷町 涌谷町史下巻(昭和43)から

 日本鉄道株式会社は(中略)、遠田郡では北浦村の鎌田常之助(1万円)、馬場谷地村砂金三十郎(5千円)、横山萬五郎(5千円)の3人が名を連ねた。
(砂金三十郎は涌谷伊達家の御用商人の家の次男、質屋小間物度量衡火薬商を営業。横山萬五郎は江合川の河川交通盛んな頃にひたら船の船頭、維新後、三井組石巻出張所の東京引き上げに際し手形の残処理で産を成したという。〔この部分おだずまジャーナル要約〕)
 (中略)本線は鹿島台から涌谷を通る予定であった。ところが陸蒸気が走るとその火の粉で火災になるとか、振動で線路近くの田圃に植えた苗は活着しないとかの流言が飛んで、涌谷駅の開設を拒み、鉄道を小牛田に追いやった。小牛田でも停車場を街には作らせず、南端の田圃中の元停車場の地に建てたのであった。いわゆる鉄道反対説が堂々と罷り通って涌谷は本線筋からはずれたのであると伝える。これは各地でよく語られる話であるが、真偽は不明であり、もし事実とすれば誠に遺憾事で、爾後の涌谷町の発展に大きな影響を与えたといえる。
 鉄道の開通によって陸運は飛躍的な発展をしていった。従来振るわなかった塩竈の市況はとみに活発化し、小牛田新市街が生まれていった。

三本木町 三本木町史上巻(昭和41年)から

 東北本線の通過している宮城県内の地点を見るに、仙台以南の地と一関以北の地とは、大体国道すなわち奥州街道に沿うているが、仙台から北方一関に至るまでの間は、鉄道は国道の東方を走っている。従って、かつて奥州街道に沿うていた七北田、富谷、吉岡、三本木、古川、高清水、築館、金成等の旧宿駅であった町々は、遠く鉄道から離れ、一方比較的人口の疎らな地方を縦走している。
 これは色々と敷設に当たっての理由もあったことであろうが、一般の鉄道敷設条件の例外とも見られる。その理由として考えられることは、鉄道を敷設する地方は可成り平地であるということである。従って丘陵地帯である七北田、三本木とか築館、金成などの地を避けたものと見られる。また、鉄道の通過することによって従来からの徒歩の往来客が減少するとか、桑の栽培とか稲作に被害などの関係から地元民の要望、反対もあったので、現在の場所を通過することになったとも言われている。
 この鉄道の便から遠ざかった三本木は、汽車に乗るためには当時小牛田とか松島の駅まで出ねばならなかったのである。かくて旧道に沿った各宿場町は、衰微の一途を辿った。特に川の運輸の便を失った三本木などは、その代表的なものであった。

古川市 古川市史第4巻(平成19年)から

 なぜ、東北線は古川を通らなかったのか。東北線から外れた理由は何だったのだろうか。地元民の反対の声が強かったためとも言われるが定かではない。(中略)各地の鉄道反対の声(中略)の多くは、鉄道の便利であることは認めつつも、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。
 東北線のルート決定に当たっては、明治13年(1880年)12月開拓使傭ジョセフ・クロフォードが松本荘一郎とともに東京-青森間を測量したが、それによると、一関-仙台間は現在の路線と同じである。このことから、古川は当初から外れていたとも推定されるが、これより古い図面には古川を通る路線が書き込まれたものもあったとされ、詳細は不明である。
 ルート決定の基準として、
(1)東京と野蒜(後に塩竈)、八戸の各港を結び、更には青森港に達する、
(2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ、
(3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける、
の3点があった。路線が古川などの国道から離れ、東側を通ることになったのは、やはり国道筋の反対と仙台-塩竈間を本線としたためかも知れない。
(この後、本線との連結が課題となる。明治27年石巻鉄道株式会社の設立申請があり、石巻-小牛田-古川-鍛冶屋沢(川渡)の開通をめざした。明治30年に測量、31年に免許下付もされたが、結局実現できず。後の陸羽東線まで待つことに。〔この部分おだずまジャーナル要約〕)
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以上がルートから外れた地域の「正史」であり、現代から振り返って、やはり残念だったという色がどうしても濃い。涌谷が原案ではルートだったのに反対論で変更した、というのは、真相ではなく、やっぱり強がりから来る言い訳なのだろう。

東北線が走った後には各地で横断線の熱意が上がっていることから、よく理由とされる鉄道反対論も、当時にどれだけ人々が信じていたのかと考えると、相当疑わしいと思う。ただ、実際に鉄道が走る前の段階では、見たこともない黒船に疑心暗鬼だったろうことは、考えられる。ある程度は、反対論があって、多少なりともルート選定に影響したのかも知れない。もし古川が商工界挙って出資も増強し政治運動などすれば小牛田ルートから変更されたかも知れぬ、という消極的な意味での影響だが。

それにしても、古川、築館が東北本線で結ばれている県土を想像してみる。例えば、泉区や富谷の大型団地も今ほどでなかったかも知れない、などと。

■関連する過去の記事(東北本線ルートなど)
 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)
 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日)
 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)
 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日)
 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日)
 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日)
 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日)
 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日)
 仙台駅のはなし・続(06年7月11日)
 仙台駅のはなし(06年7月10日)
 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)

■関連する過去の記事(県北部の駅)
 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日)
 小牛田駅前 20時(08年5月10日)
 エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)





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最終更新日  2011.08.24 20:24:22
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