大久保 利通(鹿児島県出身)
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。■生い立ち文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の二女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという]。天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗るが、後に改名する。■幕末弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。安政4年(1857年)10月1日、西郷とともに徒目付となる。同年11月、東上する西郷に同伴し熊本に達し、長岡監物、津田山三郎らと時事を談ずる。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)7月の斉彬の死後は、11月に失脚した西郷に代わり組を率いる。同年12月、流罪の際に山川港に寄った西郷に書を送り、脱藩義挙に就いて密かに意見を問う。安政6年(1859年)11月、同志40余人と脱藩を企画する。しかし、新藩主・島津茂久、親書を下して藩の勤王の方針を告げ、脱藩を止める。同月、藩主の実父・忠教(後の久光)にあてて時事の建言を行う。以後、忠教に税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院の住職・乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。万延元年(1860年)3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年)9月、同志と謀り、親族町田家が秘蔵していた楠木正成の木像を請い受けて、伊集院石谷に社殿を造営する。同年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる。文久元年12月15日(1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める[注釈 3]。元年12月28日、久光の内命により大久保は京都に上る。■倒幕・王政復古文久2年(1862年)、正月より久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。同年正月14日、前左大臣近衛忠煕、忠房父子に謁して、久光上京、国事周旋を行うことを内々に上陳する。同年2月1日、近衛父子の書を携えて帰藩する。同月12日、大久保らの進言を受けて久光に召喚された西郷が奄美大島より戻る。翌13日、小松清廉邸において、西郷らと久光上京に関して打ち合わせる。3月に入り、西郷が先発して村田新八らとともに上京。同月16日、久光、千人を超える兵を率いて公武合体運動推進のため上京の途に就く。大久保はこれに従った。同月30日、兵に先駆けて、下関より西郷の後を追って大久保のみ急遽東上する。4月6日、西郷と会い、京都大阪の形勢を談ずる。同月8日、播州大蔵谷において久光を迎える。同月16日、久光入京する。大久保はこれに随行。翌17日、久光は浪士鎮撫の勅命を受ける。同月19日、大久保は大阪に赴き、志士を説得する。同月23日、伏見において寺田屋騒動勃発。奈良原繁らが有馬新七らの義挙を止めるも、これを受け容れず。新七ら8名が斬られる。5月6日、大久保は、正親町三条実愛、中山忠能、岩倉具視ら諸卿に謁して、勅使を関東に下向させることに関して建策する。同月9日、久光、勅使大原重徳卿の随行を命じられる。5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉、中山中左衛門と並んで久光側近となる。同日、久光、関東に向けて進発する。大久保はこれに随行する。6月7日江戸着。同月26日、大久保は、大原勅使に謁したうえで、幕閣が勅命を奉じない場合、決心する所があることを告げた。8月21日、久光江戸を出発し西上する。大久保はこれに随行する。この日、生麦事件あり。翌閏8月7日京都に着く。同月9日に久光による参内、復命。大久保はこれに随う。同月23日、久光帰藩のため京都を出発する。大久保も随行。同月30日、大久保は御用取次見習となる。文久3年(1863年)2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。慶応元年(1865年)1月下旬から5月の間に利通と改諱する。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古の大号令を計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。■明治維新後慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧している。首謀者の江藤新平ら13人を、法によらない裁判で勝手に処刑した。さらに江藤を梟首しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。しかし問題にはされなかった。また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した。大久保が目標としていた国家はプロイセン(ドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。■暗殺大久保の墓(青山霊園)明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて殺害された(紀尾井町事件)。暗殺現場は紀尾井坂ではない。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。■仕事ぶり金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円(2019年の価値で約2億円)を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。「わしの国(薩摩)のものは政治には役に立ちません、戦にはいいが」と語り、出身藩に関わらず能力が高い者を登用した。伊地知貞馨のようにこれまで親交を結んでいた者であっても、不正が明らかになった場合は容赦なく切り捨て、公正無私に取り扱った。寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人は少なかったと言われている。桐野利秋も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐに引き下がったといわれる。大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省で後任の内務卿である伊藤博文の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中井が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。今日でいう風光関係の問題にも関心があった。明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ。税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。■嗜好家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子どもたちが争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。趣味は囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述があり、損得を抜きにして好きであったと思われる。また大の負けず嫌いで、対戦相手に当り散らすようなことはなかったが、碁で負けたときは露骨に機嫌を悪くした。