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「ふつうにいきてることは、すばらしい」
普通じゃない、大河まんが、によって、 感じさせられてしまった。 小学生少年、古き良き昭和文化の終焉1970年代と、 中年少年、社会の垢にまみれつつ安い脂の浮いてきたバブル崩壊後の1990年代と、 世紀少年、21世紀との皮膜、世界の終わりと始まりが、デジタルに混在する世紀末と、 未来少年、2010年代、ゾンビ系+アキラ系+ロック系な、 しょぼくて、スペクタクルな、近未来社会が、 渾然一体となって、迫ってくる。 いや、迫りつつ、逃げられてしまうので、 こちらが、追いかけてしまう。 ずいしょ、ずいしょの、きめどころで、 なみだが、たれそうになってしまう。 しかも、その決め所が、 ランダムに、へんしゅうされ、 時空が、一様ではないので、 単純な、ネタバラシ、いや、 というか、ただ、単純に読んだとしても、 推理したとしても、意表をつかれたり、 当たったりしたとしても、 ネタが、わかったから、いいやではなく、 単なるストリーテリングの妙ではなく、 現実の多層性を感じさせてくれるところが、 素敵だ。 一番、好きなところは、 「ともだち」が、ローマ教皇を、 自作自演で、ドームの中の数十万人、 いや、全世界の人々が見守る中で、 暗殺ORテロから、 身を呈して守ってしまうシーンなのだが、 悪で、自分で書いたシナリオなのに、 神々しくて、素敵だ。 これは、痛烈な、ギガトンだ。 全体主義、とは、何だったのだろうコンテンツなのだ。 20世紀の総括および、 21世紀への架け橋となるコンテンツなのだ。 このまんがを読んで、 はじめて、一瞬だけでも、 22世紀や、未来なるものを、 想起しえた。 気がした。 未来を想起しえていた1970年代から、 世紀の終わる1990年代を経て、 未来だったはずなのに、ただただ、生活くさい21世紀初頭、 しかも、デジタルには、スマートに発達している、 そんな中で、わたしにとって、 2010年代は、圧倒的な未来、というか、 想像すら、ゆとりをもってしたことのない、 遠い場所だった。 いや、生活的には、想像可能だったが、 年代的イメージとしては、不可能だった。 わたしにとって。 ここにあるのは、日常は、続くということだ。 どんな、非現実的、もしくは、もろ現実的なことがあったとしても。 そんなこんなで、このまんがの、この思考実験で、 怖ろしく、成功しているのは、 世界の虚構性だ。 このまんがの中心軸である「ともだち」は、 西暦を排して、「ともだち暦」をつくってしまう。 イエスの作った「西暦」を上書きしてしまうのだ。 世界大統領になってしまうのだ。 つまり、この『20世紀少年』という、フィクションは、 縄文、弥生時代を経て、貴族、武士の切り替わりを通じ、 幕末開国、だつあにゅうおう、敗戦、日米和親条約を経て、 完膚なきまでに、西暦組み込まれた、現代日本人にとって、 その世界的枠組み自体がフィクション=虚構である、 という加工可能性を示すことによって、 未来なる、ひだひだな尻の穴を示すことに成功している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 29, 2008 11:36:24 PM
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