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カテゴリ:近隣の市の歴史散策
ここ最明寺史跡公園は1月に「松田町寄ロウバイ園」の帰りに立ち寄った時は誰もいなかった。
史跡公園は、毎年4月上旬になると「ソメイヨシノ」や「花桃」などたくさんの春の花が咲き乱 れる、知る人ぞ知る花見の名所であることを知り2度目の訪問。 4月10日(水) 14:05 途中の駐車場に車を停め、歩いて公園へ下る。 ![]() 最明寺(さいめょうじ)史跡公園 所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子 最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近で、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。 この日は4月10日の「最明寺例祭」で関係者等の多くの車が停まっていた。 ![]() 最明寺史跡公園 管理事務所 表札は逆書きになっていた。また入口横には公衆電話が設置されていた。 ![]() 最明寺史跡公園案内図 ■ 最明寺跡 人里はなれた山中で、密教の奥義を追求した真言宗の名刹として、鎌倉時代の承久三年(西 暦1221年)松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地 に建立したものである(当時は西明寺)。 その後、文明元年(西暦1469年)となりの大井町金子に移転しており(現最明寺)なぜ移転し たかなど謎も多い。 毎年4月10日には、庶子地区の信徒により「施餓鬼会(せがきえ)」(供養の行事) が盛大に 行なわれ、極めて仏縁の深い地である。 ![]() 最明寺史跡公園 花マップ 春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはいろんな種類のサクラの木 に囲まれ、水面を草花や樹木が彩ります。野鳥がさえずる散策路を歩き池をひとめぐりすれば、 心が解き放たれるような不思議さを覚えますと。 サクラの種類も、咲く時期が異なるオオシマザクラ、河津桜、寒緋桜、おかめ桜、紅しだれ桜、 ソメイヨシノ、関山、大寒桜、手弱女、ウコン桜、楊貴妃、東錦、気多白菊桜と多種である。 ![]() 山の斜面が白く染まっていた。 管理人?の方がオオシマザクラが数十本植えられていると。 ![]() 1月に訪れた時は河津桜が数輪咲いている程度であった。 ![]() 池の周りのいろんなサクラが満開になっていた。 ![]() 南側広場の八重紅しだれも満開に。 ![]() 広場にはテーブル席もあり宴会中であった。 ![]() いろんな色のサクラが咲き、池の対岸にはこれから咲く「ウコン桜」が数本あると。 ![]() 紅白の花桃であろうか。 ![]() 湖面に浮かぶ花びら。八重紅しだれも咲く。 ![]() 傾斜地に咲くオオシマザクラ。湖畔の木は開花前のウコン桜。 ![]() 頭上を見るとモミジの花が咲いていた。 ![]() 満開の八重紅しだれとソメイヨシノ。 ![]() 鮮やかな菊桃と花桃が満開。 ![]() ズームアップ。 ![]() 赤い菊桃をズームアップ。 キクモモはバラ科サクラ属の落葉小高木でモモの1品種。名前は、花弁が細長くキクに似ている ことに由来する。別名はゲンジグルマ。 濃い紅色の八重咲き。花期は3月下旬から4月上旬ごろ。 江戸時代に中国北部より渡来し観賞用に改良され、現在に至る(ウィキペディアより)。 ![]() 初めて見た菊桃、右に八重紅しだれ。 ![]() 菊桃を見上げる。 ![]() 花桃と菊桃の競演。 ![]() これから咲く幹に「欝金(ウコン)」と。 オオシマザクラ系のサトザクラであり、江戸中期以前に人の手によって作られた品種と考えら れている。花弁が香辛料で知られるウコン(鬱金)に似た萌黄色になることからウコンザクラと 名付けられた。 黄色い花を咲かせる唯一のサクラであり、清酒「黄桜」はこの花にちなむと。 ![]() 対岸に八重紅しだれと手前にウコン桜。 ![]() 急斜面にオオシマザクラが咲く。 ![]() 公園からハイキングコースの斜面を上がって行くと富士山や相模湾も見渡せると。 ![]() 満開の八重紅しだれの水鏡を期待したが。 ![]() 手前左側の幹には「関山(カンザン)」と。 関山は東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種です。 花色が濃紅色で美しく、生育もよいので海外でも広く栽培されています。また、 お祝いの席で出される桜湯にはこの花の塩漬けが多く用いられている。 ![]() 八重紅しだれが満開に。 ![]() 湖畔に咲く八重紅しだれ。 ![]() 最明寺史跡公園の西側に「鐘楼跡」があるので行きたかったが。 ![]() 木の根元に倒れた案内板、 「寄自然休養村 1時間30分 松田山入口 40分」 「最明寺史跡公園 3分」。 ![]() 八重紅しだれが水鏡に。 ![]() さざ波が立つ湖面に八重紅しだれの水鏡。 ![]() 満開の八重紅しだれの下を散策。 ![]() 八重紅しだれの樹齢は何年であろうか。ソメイヨシノに比べ成長が遅いのでは。 ![]() スマホで撮影。多くの人が訪れていた。 ![]() スマホで撮影 ![]() 八重紅しだれと後方の山にオオシマザクラ。 ![]() 幹に「八重紅(ヤエベニ)しだれ」と。 幹の苔から樹齢は・・・。 ![]() 八重紅しだれをズームアップ。 ![]() 公園入口の管理棟の横に数台の駐車場。 ![]() スマホで撮影 ![]() 最明寺護摩堂跡 覆い屋の下に平成六年に寄進された石碑。 この日は4月10日で「最明寺例祭」が行われたのか紙垂で飾られていた。 ![]() 綺麗な花も供えられていた。 ![]() 最 (西) 明寺跡の由来 伊豆山の別当浄蓮上人源延は、夢のお告げを受け、信州善光寺の一光三尊善光寺如来の尊像を 模写して越前の仏師海縄にたのんで金銅の仏像を鋳造して承久三年(1221)松田の郷庶子山に安 置し、寺を西明寺といった。 源延は源頼朝の重臣加藤左衛門尉実長斎といい、出家して、天台の澄憲の門に学び、のちに 伊豆山の別当となって活躍した。第二位覚阿上人円浄の時に最明寺入道北条時頼は、善光寺 如来を深く信仰し、寺領一千五百石を寄進したので、この時寺門は隆盛であったと伝える。 応仁・文明の戦乱のため、最明寺は次第に衰えた。文明年間、鎌倉八正寺宮尊賢親王は、弟子 の賢昌を住持として寺の復興を計ったが、山道険しく、人ともに困難であるため、寺を金子の 郷に移した。 庶子山西明寺の田地は、庶子村の信徒にまもられ、数百年の間、毎年四月十日の 施餓鬼会と 善光寺如来の戸ごとの巡行供養が行われてきた。 その後、松田町庶子戸主会、現在の庶子自治会が継承して昭和の今日に至っている。 昭和六十三年十月吉日 松田町教育委員会 ![]() 一段高いところにいくつもの石仏。 ![]() 14:25 八重紅しだれとオオシマザクの競演である。 ![]() ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.10 03:00:09
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