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カテゴリ:夫の母
明野飛行学校時代 義母の文(不死鳥はいまもなお より)
昭和18年年12月1日付きにて、三重県明野飛行学校へ転勤。飛行学校の周辺はその頃は「明野が原」とよばれ、一面のススキの原で、農家が何軒か点在していた。 住居は学校が用意してくれた 明野駅に近い雑貨屋の離れに住むことになった。その頃から戦局は日増しに楽観できない状態になっていた。 パイロットとしての夫の任務はいよいよ忙しくなり、学生たちの特訓は日毎夜毎展開され訓練中の事故もかなりでたようであった。その都度神経を痛め暗い表情で帰って来たものである。 食料事情もますます困難となる一方であった。まれに肉の配給があっても硬く石油臭いもので、なんとか疲れて帰ってくる夫にたんぱく質を食べさせようと、料理法に苦労したものである。 その頃は卵一個手に入れるも至難な時代だった。もうお金ではものが買えなくなっていた。 お百姓さまさまの時代だったので、農家一軒一軒に頭を下げ卵を求めた。その代償は物であった。実家が送ってくれたお茶、椎茸、衣類などが卵に変わった。子供を背負っての農家周りであったが、一生懸命で惨めさは感じなかった。 「目が見えない」 ある朝夫は朝食前に広げた朝刊を前に「おれは目がみえない」と突然叫んだ。わたしはただ事でないことを直感した。 しばらく学校を休むように勧めたが聞かず、迎えを頼み出勤していった。しかし学校長から自宅療養を命令された。 しばらく自宅から通院し療養したが気もそぞろであった、医者からも入院をすすめられたが、戦局のことを思いじっとしておられず学校勤務を再開した。医者の診断は栄養不足と心身の過労だろうということであった。 夫は一旦こうと決めたら、梃でも動かない強情な面があった、目はパイロットにとって致命傷なので、私は心配でならなかった。新聞は毎朝私が読んできかせた。 こんな体なのに夫は毎日飛行場に立って、学生達に「撃ちて止まん」の特訓をし、その心意気を自ら示していた。 そして、夫は航空本部へ自ら志願し、戦地派遣を望んだ。 夫の強靭な精神は軍人魂を発揮できたのではあったが、完全な体の状態ではなかったのにと悔しさは残り 、夫の短い人生を愛しくおもう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年09月05日 08時56分29秒
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