272092 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

  新 つれづれ日記     

  新 つれづれ日記     

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2012年06月10日
XML
カテゴリ:夫の母
義母の引っ越し7回・その3

024.JPG023.JPG 
孫たちと靖国神社へ


母の老人ホームの仕事は順調に続いた。
もともと、人間大好き、世話好き、情が深い、人の上に立つのが好きの性格、
それに、頭がよくなんでもこなせる人だった。

老人たちの一人一人を親身になって世話し、老人たちのお母さんのような役を務めた。
危篤の老人が出そうな夜は園に泊まり込み、老人の手をとって最後を看取った。
長引くと何日も家に帰らない日もあった。

母は寮母さんからも慕われ、管理も上手、皆に公平だったので信頼を得ていた。
ただ、自分をちょっとでも誤解されると烈火のごとく怒ったものだ。
老人ホームには年中行事や老人の趣味の時間があるが、母は本当に何でもできる人だった。

歌も民謡も上手、書も絵も描ける。ちょっとした寸劇の演出などはお手の物、ポスターも描き作品展示も、バザーの企画もなんでもやってのけた。

母は園になくてはならない人になり、仕事が生きがいになっていた。

我が家も母が自分の世界を見つけてくれたことで誠に平和になった。
食事も園で摂ることが多くなり、帰宅時の夕食は我が家で摂ることも増えた。

母は経済的に楽になったで家族を「レストラン]によく誘ってくれた。
母は肉が大好きなので必ずステーキ、子供たちはハンバーグ定食にデザートつきだった。
なつかしい日々である。

休みの日は、孫を伴ってや靖国神社に行ったり、旅行に出たり、詩吟の発表会にも出て、充実した日々を送った。

そして、母は6回目の引っ越しをすることになる。
今度は母一人の一戸建てである。
2階の建て増ししてから3年後の 昭和53年のことであった。

たまたま、我が家の真裏に建売の1戸建てが建ったのである。
スープの冷めない距離とはこの家のことだと、心が動いた。
それも建売の値もそれほど高くない。

我が家は3人の子供も大きくなり、子供部屋が欲しくなっていたし、夫の書のアトリエも狭くなっていた。

それに私の実の母が我が家に来た時、ゆっくり逗留できる部屋も欲しかった。
義母自身も職場の人や友人の交流がふえ、今の2階の部屋では手狭になってきていた。

夫と話し合いの結果、今の家のローンのほかに建売のローンを組んだ。
母が内金を少し手伝い、返済ローンも月2万円ほど手伝ってくれるというので買うことを決める。

そのころの住宅ローンの利子は8・5パーセントもしていた。今と大違いである。

夫は金と土曜日の午後、日曜日の午前と我が家で子供の書道教室を開き、私は雪印乳業の栄養士として必至で働いた。

子供たちもピアノや楽器をやり、親は自宅で合唱練習をやり、それぞれに極めて個性の強い田端家の面々、ローンは大変だったけれど皆が仲良く摩擦なく暮らすためには、これだけの住宅空間が必要だったのだと思う。

義母はそれからの10数年を、この新築の家で過ごした。

私の母も時々来て2階に2週間ほど泊まっていくこともあった。
二人は同郷ということ、同じ戦争未亡人ということもあり、同志のように仲が良かった。

033.JPG

・・・・・・・
道子のパソコン水彩画三昧





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年06月13日 07時51分59秒
コメント(0) | コメントを書く
[夫の母] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.