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スキャンダルなど隙だらけの与党議員や本質的に政治家と資質を備えていないほとんどの野党議員を見ていると実に情けなく感じます。
だからと言って ・他人のせいにしても自らの周りの環境が良くなるわけもありません ・ダメな政治家を批判だけしても世の中は良くなりません ・言葉遊びをどれほど繰り返しても変わりません 自分たちがダメな政治家を選んでいるのです。 (ダメな政治家を生む偏向したマスコミなどの政治環境やダメな政治家を選ぶようなシステムを採用していることが影響しているのは否定しません。) それでも 「一人ひとりが祖国日本を創っている」という主権者意識、当事者意識を高める必要があるものと思います。 その国の政治家とはその国の民度の反映なのです。 同時に将来は、今の若者、子供たちの反映なのです。 お分かりでしょうか・・・ 政治家を指差し、「あいつはだめだ」などと言っているのは、その指の向きを変えて自らを指差して「自分はだめだ」と言っているに等しい愚かなことなのです。 他人事のように一時「日本死ね」などという言葉がありましたが、それは自分に向けられる言葉なのだ。ということをまず自覚しなければならないでしょう。 ダメな民進党議員を「希望の党」という看板を替えただけで当選させるような(同様立憲民主党も)ことを許せば、自分たちは、政治家に馬鹿にされて当たり前の存在だ。ということになります。 「ダメな議員は、どこに行ってもダメですし、束になってもダメ」なのです。 ちりも積もれば山となりますが、それはゴミの山でしかないのです。 「希望の党」や「立憲民主党」が幼稚で、姑息で他野蛮であればある程、国民も幼稚で茶番であることの表れなのです。 他社に向けた指を自分に向けてみれば、よいでしょう。 私は、「自民党」が素晴らしい政党などと言うつもりは全くありません。とんでもない人たちがたくさんいます。ですから、本来は批判したいのですが、それ以上にひどい人たちがいるから、まずそちらから始めなければならないのです。 本来ならば、政権公約に即して、あるいは政治家の心情に即して、現状はどうなのかというまっとうな検証と批判がなされ、是正を求めていかなければならないものと思っています。 そのような自民党議員を生んだのも「国民」であり、私自身の責任でもあります。 まず、各党の政策云々よりも ・「祖国」という意識を持っているのか? ・民族や血筋ではなく「日本人らしい」か否か? このあたりを判断材料とすべきではないでしょうか? 難しく考える必要はありません。 まず無用に横文字を多用する人は、言語という祖国を持っていない人です。そのような人に祖国意識は大きくありません。母語は祖国の重要な一部なのですから。。。 日本語よりも外国語を無理に用いようとする方々は、日本よりも他国は優れている。こう考えている方が少なくないのです。 勿論無理やりわけのわからない「翻訳」をする必要もありません。新しい「理念」として我々にはない間隔であれば、横文字をそのまま使うのが自然と言えます。 そのようにして我々は外からさまざまなものを受け入れてきたのです。 しかし日本語にしっかりと置き換えられるものをわざわざ横文字を使うのは、「鼻つまみもののエリート意識」が「誤魔化しでしかありません。 日本人の美徳からすれば卑怯というものでしょう。 「おかげさま」「おたがいさま」と思っているかどうか。 これは、我が国の宗教である「神道」の考え方です。 皆様がたは、神社を「お願いをするところ」と思われているかもしれませんが、実は「今あることを感謝する」ところなのです。自分が不幸だと思っていても、それでもまだ不幸な方々もおられますし、それは自らの努力の結果でもあるのです。 そして神社にはもうひとつ「自分の決意を述べる」場でもある。ということです。 そうあくまでもすべて自分なのです。 「自らを助けるものは自分」なのです。 勿論、それだけでは不十分ですから「共助」「公助」も必要でしょう。それでもまず自分なおです。 国防において、自らを助けるのは、同盟国ではなく、先ず自国なのです。 「他人」にすべて任せたり、他人のせいにするものではありません。 我が国の精神性が「専守防衛」「戦えない国家にする」ことでは断じてないのです。 これは日本人らしくない振舞いなのです。 このあたりなら、政治が分からない、政策は難しすぎる。といわれる方々でも判断できるのではないでしょうか。。。 まあ政治家の所作が「美しい」か「醜悪」かというところからも見えてくるでしょう。 東京五輪決定の際にプレゼンテーションで「おもてなし」という言葉が、勝因の一つのように語られていますが、実は海外の反応はまるで逆「上から目線」に映っていたそうです。 確かに「自分が幸せだから、相手に提供する」という意味も感じられるのでしょう。 しかし、本当のおもてなしとは、自らが足るを知ることによって、他者を慮るということです。 東日本大震災の際に被災者の方々が見せた、自分たちは不十分ながら支援物資はあるから、もっと困っている人にあげてほしい。これが「おもてなしの心」でしょう。 さらに大震災関連でいえば「絆」なる言葉が、美しい響きを持って伝えられました。それは違うと曽野綾子しは当時唱えました、「絆」とは親の介護のようなもの。 実に見返りもなく、他者から評価されることも全くない。それでいて、最終的にそこから解消されるのは「親の死」でしかないのです。 そんな生易しい言葉ではない。と曽野綾子氏は言われていました。 今、親の介護をされておられる方には、その意味がお分かりになるのではないかと思います。 閑話休題 そうして選ばれた方々の方々の議論なら、なにがしら心を打つこともあるでしょうし、その議論の結果としての妥協点も見えてくるのではないでしょうか。 「対立」ばかりして、そこで全力を使い果たすのは、効率的ではなく、不合理だと日本人なら感じるはずです。 「二項対立」は一見わかりやすいように見えて、思考を停止させるだけで、感情のほうが情緒よりも論理よりも優先させてしまいます。 このようなことは糸をもつれさせるだけでしかないのです。 米国のような、隣の人を信用できない国家では、そのようなある決定を持って基準とすることが必要であり、合理的なのでしょうが、日本人はそうは考えないのではないでしょうか。 「ほどほどに」これは日本人の美徳だと思っています。そこに必要なのは「足るを知る」ということでしょう。 「白黒はっきりさせよ」としてきたのは本当に正しいことなのでしょうか? 勿論、そのような場合もありますが、矛盾点は括弧に入れて放置しておく。というのが、我が国の「許容」の在り方であることは「古事記」を見てもわかるのではないでしょうか。。。 これは多くの場合に「不毛な対立」「根深い対立」という非効率的な対決を生みます。 わがままばかり言っていては国家は維持できません。 コップ半分の水を、コップに半分しかないとみるか、半分もあるとみるかの違いです。 コップ半分もあると考えれば、もっと少ない水しかもっていない人たちのことも見えてくるでしょう。 ですが、今はコップ一杯の水を持っている人を妬み、自分にもコップ一杯の水をくれというのが正当な要求であり、それを満たすことが政治であるかのように心得ているのではないでしょうか。。。 「潔くない」「姑息」な日本人らしくない政治家が増えています。これは我々自身日本人らしさを失いかけているからであり、その鏡に映る自分を見て、自ら変えていく努力をするということから始めるべきでしょう。 近秋の総選挙、どこにも「風」は吹いていません。 だからこそ、原点を見つめなおすちょうどよい機会だと私は感じています。 突風吹きすさぶ中では、「冷静な判断」も「深慮」も働きませんからね。 まっとうな自民党批判、安倍総理批判ができる国にまずしましょう。 自民党の、民進党の、共産党のゴミのような存在をまず綺麗にに整理整頓しましょう。 今回の総選挙その第一歩としましょう。 文責 上田 和哉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.10.07 13:00:08
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