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沖縄戦はまごうことなき「本土決戦」である。
私は、常に沖縄戦を考慮、ないしは沖縄をテーマにブログを書く際念頭に置いていることである。 私は、少なからぬ国民がそのことに気が付いてくれることを根張っている。 だが、残念なことに沖縄の地元紙「沖縄タイムス」紙は、その厳正なる真実に目をつぶり、さらにそれを喚起することなく、別の気づきを求めている。 誠に真実を曲げた「いかがわしい」一文である。 私は、この社説を紹介するのを一昨日の「慰霊の日」でも昨日の「慰霊式典の日」でもなく本日に回したのは、静謐な環境の中、できるだけ多くの方々に考えていただきたい。と思ったからである。 昨日分の社説を含めて二本掲載する。 社説[慰霊の日に]気付きの機会つくろう 2018年6月23日 09:11 糸満市摩文仁の平和祈念公園に「平和の礎」が建設されたのは、戦後50年に当たる1995年6月23日のことである。 刻銘碑の中に肉親の名前を見つけ、指でなぞりながら泣き崩れる年老いた女性の姿は、今も記憶に鮮やかだ。 だが、沖縄戦で亡くなった多くのハンセン病患者は当初、遺族からの申告を原則としていたため、刻銘されなかった。 刻銘条件が緩和され、地縁団体からの申告が認められるようになったのは2004年からである。04年から3年かけ、382人が刻銘されたという。 「戦争の時は、健康ほどいいものはないですよ」 沖縄愛楽園(名護市済井出)の入所者がさりげなく語ったこのひとことは、聞く者に重く突き刺さる。 日本軍は米軍上陸を控え、在宅のハンセン病患者を強制的に愛楽園に収容した。450人の定員がたちまち913人に膨れ上がる。 劣悪な環境の下で防空壕づくりに従事させられ、マラリアや栄養失調などで亡くなる者が相次いだ。 訪れる機会の少ない愛楽園の資料館を見学し、資料や証言などを通して戦争の実相に触れることは、「気付き」に満ちた体験となるだろう。 平和教育も平和学習も慰霊行進に参加することも「気付き」の第一歩である。 読谷村波平のチビチリガマが少年4人によって荒らされた事件は、遺族会などの事後サポートによって「気付き」を促す機会となった。 ■ ■ チビチリガマは沖縄戦の際、「集団自決(強制集団死)」で住民83人が非業の死を遂げた場所として知られる。 階段を下った谷底にガマの入り口があり、その場所を覆い隠すかのように、木が生い茂っている。 ガマの周りに、祈りの姿をかたどった小さな野仏がぽつんぽつんと立っている。昨年9月の事件で保護観察処分を受けた少年たちが、村内に住む彫刻家・金城実さんの手助で共同製作したものだ。 遺族会会長の與那嶺徳雄さんのもとには少年たちが記したリポートも届いている。 犯した過ちに向き合うことと、チビチリガマを巡る歴史の実相に触れること-それこそが「気付き」の体験そのものだと言っていい。 上からの押しつけによって知識を詰め込むのではなく、ことりと胸に落ちる経験を大切にする。平和教育や平和学習に対するマンネリ感に向き合わなければ若い人たちの「沖縄戦離れ」を食い止めるのは難しい。 ■ ■ ひめゆり平和祈念資料館は、1989年の開館以来、寄せられた感想文を「感想文集ひめゆり」として毎年度ごとに発行し続けてきた。 ひめゆり平和祈念財団代表理事の仲程昌徳さんがその一つ一つに目を通し本にした。 入館者の感想文を仲程さんは「館の宝物」だと表現する。 「気付き」は決して一方通行ではない。体験者と非体験者が年齢差を超えてともに学び合う-そんな関係が生まれているのだと思う。 以上太字部編集し引用 なぜ沖縄線を語る際に、全国すべての都道府県の戦死者はいるのか? 私は、まずこの点に留意してもらえれば、沖縄線とは「沖縄を捨石」にしたものではないことは、それこそ、胸にストンと落ちる感慨であろうと思う。 沖縄戦の「慰霊の場所d売れる修学旅行生は、今年も多いのだろう。 しかし、沖縄戦で自らの祖父を失った沖縄出身者以外の特攻で亡くなられたご遺族の声にはたして、このような社説が心に響くであろうか??? なぜ、自らの肉親は「沖縄線」で命を落とさなければならなかったのか? この方々は「沖縄県民」を救うため、沖縄県民の一日でも平穏な日常を送れるよ言うにとの思いで飛び立っていったのではないのか??? 私は、沖縄県民にこのような声にもしっかりと答えていただきたいと思う。 勿論その答えは、「その方のおかげで今の我が国が、今の沖縄があるのだ」という感謝の念ではないであろうか??? なぜ感謝の念がないのであろう?? 私は、沖縄県民の国民というナショナリズムを通して経験された悲劇は、悲しむべき逸話であると共に感謝の念を忘れない。そして同じ日本人であることに誇りを持つ。 ハンセン病患者に関して、この社説では述べているが、このいわれなき差別は、沖縄に限った事であろうか?そうではない。全国で行われた悲しむべき事実であり、我々は、その過ちに芯に向き合い、いわれのない差別から脱していかなければならない。 たとえば、広島・長崎の被爆者に対して「投げかけた誤った言葉の暴力」であろう。だが、残念ながら、福島第一原発事故後の福島県民にも、この誤った言葉は繰り返されたのである。 そのようなこと9に、何も触れない社説とは一体何であろうか??? 昨日分の社説も掲載しておく。 社説[全戦没者追悼式]この訴え 届け全国に 2018年6月24日 08:00 戦後73年の「慰霊の日」。梅雨が明け、真夏の強い日差しが照りつける中、各地でおごそかに慰霊祭が営まれ、平和への思いを新たにした。 野ざらしになった遺骨を納めるため、戦争が終わった翌年に建立された糸満市米須の「魂魄の塔」。慰霊搭の原点ともいえるこの場所は、早朝から香煙が絶えることはなかった。 まんじゅうのように盛り上がった芝の周りには枕くらいの大きさの氷や、小菊の花束、バナナなどの果物が供えられた。 平和祈念公園に建つ「平和の礎」にも、家族連れが次々と訪れた。 沖縄戦で亡くなった24万余の人々の名が刻まれる刻銘碑。じっと名前を見詰め、指を折って何かを数えるしぐさのお年寄り。三線を取り出し碑の前で合奏する人々。何年たっても戦争で肉親を失った悲しみが癒えることはない。 平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式。この場の空気は、県内のどの慰霊祭とも異なっていた。 翁長雄志知事と県遺族連合会の宮城篤正会長が、そろって基地問題を取り上げたからだ。 宮城会長は「戦争につながる新たな基地建設には断固反対する」と遺族としての決意を述べた。 翁長知事は平和宣言で、「沖縄のこころ」に触れながら、こう力を込めた。 「辺野古に新基地を造らせないという私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません」 ■ ■ 知事にとって1期目の任期最後の平和宣言である。膵(すい)がんを公表し抗がん剤治療を続ける中、この日は直前までかぶっていた帽子を脱いでマイクの前に立った。 落ち着いた表情ながら、その話しぶりは決然として、強い意志と覚悟を感じさせるものがあった。 知事は、米朝首脳会談が開かれるなど東アジアを巡る安全保障環境の大きな変化に触れ、「20年以上も前に合意した辺野古移設が唯一の解決策といえるのか」「緊張緩和の流れに逆行している」と訴えた。 移設計画の見直しを求める翁長知事の平和宣言を、安倍晋三首相や小野寺五典防衛相はどう受け止めたのだろうか。 安倍首相はあいさつで「できることはすべて行う」と基地負担の軽減に全力を尽くすと語ったが、具体性はなかった。 ■ ■ 激しい地上戦があった沖縄では、生活の場が戦場になり、県民の4人に1人が犠牲になった。 戦後、沖縄を占領した米軍は、住民の土地を一方的に囲い込んで基地にした。生活の場の軍事化が進んだのだ。 そして今また、米軍再編という名の新たな軍事化が、日米両政府によって強行されているのである。 「沖縄の基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきもの」という翁長知事の指摘を、私たちもまた全国に向かって投げ掛けたい。 以上引用 「沖縄のこころ」とは何であろうか??? 「日本国民である」というアイデンティティーがその重要なる部分を占めた「心」ではないだろうか? アイデンティティーの置きな署は、衰退もすれば発展もする。常に一つのところにはない。 当時、敵国米国では、「白人」「黒人」などの枠を超え、「米国人」であるという一つの国民であるというアイデンティティーが旺盛になった時代でもある。 世界を見てもらいたい。 わが国だけが「偏狭なるナショナリズム」の波にさらわれていたのか??? そうではない。 アイデンティティーは、賞賛されたり、また拒絶されたりするものなのである。 つまりは、今は「否定」んも声が大きいかもしれないが、「我が国に有事が起こった際には、これまた再生することであろう。 それは賛否両論あるであろうし、それこそが健全なのである。 「拒絶しなければならない」などというものこそ、自由を失った精神といえるだろう。 文責 上田 和哉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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