カルトの怖さは「常識」を失うことである。
(常識に触れるとカルトにますます逃げ込む)
こうなってしまうと、もはや専門的分野に依頼するしかないであろう。
それでは、防衛策はあるのか?
昨日、私は「宗教は人間の弱さの投影である」このように定義した。
だから「弱いからだ」と個々を責め立てたところで、何の解決策にもならない。
人間、それほど強くないからである。
現状、わが国だけのことではないが、通信革命によって、我々は様々な情報を入手することが可能になった。このことは通信革命の最大のメリットといえるだろう。
しかし、そのような作業もまた「AI革命」によって、不用になるかもしれない。
先日見ていたニュースで、AIにも欠点があることを知った。それは「○○のうち」「○○以外」という言葉が理解できないという。さらに驚くべきことに、若年層になればなるほど、AI同様これらの言葉が理解できない、見落とすという傾向があるといわれている。
これは飽きたかに「退化」と言えるだろう。
これは、瞬時に欲しいと思う情報が入手できる反面、それらを検索する際に必要な用語だけを入力するからでもあろう。そう「以外に。のうち。 などという言葉を考慮する必要がないからとも思える。)
これは、私がこのブログで何度か触れているが、現状SNSなどの発達により「自分の望む情報」だけに接することが可能になった。悪弊の一つであると思う。
「自らと同じ思想をもつ集団」確かに心地よいかもしれないが、これは「カルト」と同じではないだろうか?心地よいかもしれないが、善ではない。
イデオロギーなるものは「アイデンティティーの一部を構成する」ものであろうが、これは過大評価してはならない。これらは衰退も拡張もするものでしかない。
過去、わが国では戦後かなりの期間「左翼でなければ人に非ず」このような歪んだ考え方が知識層を中心に蔓延っていた。多くの先人の努力の賜物によって、これらの空気はかなり薄れてはきたものの、マスコミ、学会などにはまだその残滓が残っている。
ここで考えていただきたいのは、これら先人たちの「努力」である。
その方々は、「反論」するために様々な思考・試行を行い、ロジックとして、証拠あるものとして確立させてきた。そのおかげで「保守」も「論述的価値」から見れば「左翼」をはるかに凌駕するにいたった。
そう「ロジックで勝利した結果」なのである。
一方左翼は、「ロジック」ではなく「感情に訴える」という方法をとる。いや取らねばならなくなったのである。
「歪んだ思想」というものを世間に拡張するためには「歪んだ方法」を取らなければならない。ということである。
オウムをはじめとするカルト集団は「常識」「ロジック」では到底理解されない。ゆえに「歪んだ方法」をとる場合が多いのである。
「方法」「手段」を見ていくと、どのような「考え方」をするのか見えてくる。
たとえば「俺様に従え」という考え方が主としてあれば、それらに「常識」も何も通用しない。
そのような集団が「主」となるためには「独裁」とならざるを得ない。
カルトにまでは至らなくともそれに近い「左翼集団」「右翼集団」はかなりあると見ておかなければならないであろう。
若い方々には、ぜひ、自らと異なる意見についても、目に触れるようにしていただきたい。
そして、それを論破する「ロジック」を自ら考え、「実現方法」まで考えていただきたい。
「情報の取捨選択」この能力を高めていただきたい。
これは「インテリジェンス」であり
一見つまらぬ情報に見えるものでも、そこから意外な「動き」が見えてくるかもしれない。またその後の動きに影響を与えることかもしれない。
現状において、「カルト」からの恐怖に対する防衛策は、ある意味において「劣化」している化のようにも見える。「インテリジェンス」に関して我が国は何か動きがあったのだろうか?
本格的なインテリジェンス機関が創設されたとは聞かない。
勿論、インテリジェンスは「錯誤の葬列」であり、「ベストチョイス」を必ず用意するものではありえない。この程度の常識も押さえておいてもらいたい。
その上で、わがくにはやはり「インテリジェンス機関」が必要である。と思う。
明日は「テロ」について述べたいと思う。
文責 上田 和哉