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カテゴリ:不易流行
痔疾も小康状態に落ち着いたとはいえ、芭蕉は各地より届いた御見舞い等の書状に返書を書くのに忙しく、又地元伊賀上野の弟子たちも次々と訪れ、
その相手にも手をぬくことなく、多忙な日々であったようだ。 奥の細道で同道した曾良もひさしぶりに三月はじめに江戸を立つ旨便りがあり、心待ちする芭蕉であったが そうこうする間に、桜の季節となり、元禄四年三月二十三日伊賀上野の豪商大坂屋次郎大夫の別亭 万乎亭 に招かれ、見事な糸桜を眺めつつ、万乎の家系の永続を詠った挨拶吟として 「年々や桜を肥やす花の塵」(としどしや さくらをこやす はなのちり) と詠じてみせた。 主人次郎大夫はその折、願い出て入門し、その甲斐あって 「田の畝の豆つたひ行螢かな 」(たのうねの まめつたいゆく ほたるかな) など『猿蓑』 『去来抄』にも収められている句などを数々発句している。 その後 まもなく曾良も江戸より到着し、再会を喜びつつ、曾良をともない、奈良を経由し大津へ戻ったのが三月末であった。 芭蕉生来のいらち癖が直らず、まだ乙州が国許に帰藩していなかったせいもあるのか、智月尼など大津門人との再会もそこそこに、 曾良を京の俳句奉行 去来に会わせたいばかりに、落ち着くまもなく、大津を後に、去来の西嵯峨の別邸 落柿舎へ案内し、五月四日迄 長逗留している。 その間 去来・凡兆・羽紅夫妻や、江戸より帰藩してきた乙州・堅田の千那なども訪ねてきて、曾良を含め、門人衆とさまざまに日替わりで 京都嵯峨の風情を楽しんでいる。 そのありさまは『嵯峨日記』に詳しいが、なかでも四月の 十九日 午半、臨川寺ニ詣。大井川前に流て、嵐山右ニ高く、松の尾 里につヾけり。 虚空蔵に詣ル人往かひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云有。 都て上下の嵯峨ニ三所有、いづれか慥ならむ。 彼仲国ガ駒をとめたる處とて、駒留の橋と云、此あたりに侍れば、暫是によるべきにや。 (高倉天皇后 建礼門院の父 平清盛に追放され 嵯峨に隠れ住む「謡曲 小督(シテ)の舞」) 墓ハ三間屋の隣、薮の内にあり。しるしニ桜を植たり。 かしこくも錦繍綾羅の上に起臥して、終藪中に塵あくたとなれり。昭君村の柳、普(巫)女廟の花の昔もおもひやらる。 として 「うきふしや竹の子となる人の果」(うきふしや たけのことなる ひとのはて) 「嵐山藪の茂りや風の筋」(あらしやま やぶのしげりや かぜのすじ) の二句を詠じ、人の世のあわれを 慨嘆し、 斜日に及て落柿舎ニ歸ル。凡兆 京より來。去來 京ニ歸る。宵より伏。 と同日の日記を閉じている。 昭君村の柳:<しょうくんそん>とは。漢の後宮で、悲劇の美女王昭君の生まれた村の名。で 普(巫)女廟の花の昔とは<ふじょびょう>と読み。楚の懐王が夢の中で見た女神をまつった廟。とあった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 27, 2020 04:31:17 PM
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