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カテゴリ:不易流行
去来の別荘 落柿舎滞在は、二十日間に満たない短時日であったが、芭蕉がここに来たのは晩春の頃であり、季節は巡り五月雨に入った五月四日、
明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、 「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」(さみだれや しきしへぎたる かべのあと) と吟じ、落柿舎を後にしている。 その後も京都洛内にある凡兆宅に六月中旬まで滞在し、去来・凡兆・曾良らと 『猿蓑』の編集監修をしつゝ、六月中旬まで滞在し、 大津門人の水田正秀(孫右衛門)らの骨折りで、新装なった膳所義仲寺無名庵に 六月二十五日戻り、七月三日には、京都井筒屋庄兵衛より去来・凡兆共撰『猿蓑』も出版され、やっと大津の落ち着いた生活を取り戻すこととなった。 そして、いよいよその落成祝いを兼ねての盛大な一連の行事として、まずは八月 十四日、大津の梵江寺で待宵の句会が開催され、 翌十五日は義仲寺 仲秋の観月句会の席で、物心両面の援助をしてくれた大津門人衆へのお礼の心を込めて、そのものすばり正直に 「米くるる友を今宵の月の客」(よねくるる ともをこよいの つきのきゃく) と詠じているのは芭蕉の素直な感謝の心根であろうか・・酒肴もたけなわとなり、更に興にも乗って 芭蕉が 「三井寺の門敲かばや今日の月」(みいでらの もんたたかばや きょうのつき) (三井寺 正門の句碑 莫山筆) と声高に吟じた折には、「おおそうじゃ、たった今にも出かけむものを 我もわれも」と座がさんざめき、わきかえった事だろう お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 28, 2020 04:23:00 PM
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