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カテゴリ:旅行記
いやはや我が国や米国等現在も生煮中の 現代に急遽戻るのも、億劫になり、
又ぞろ近場の堺で歴史を検分の方が性に合うと、近場の堺をウロウロしてみました。 今回は、何年か前にも、門前迄行きながら時間切れで、入門出来なかった妙国寺へ、堺東から徒歩で訪問。コンクリートだが、立派な菊の御紋祥入りに圧倒・・。 ガイド役の女性がお一人しかいないので、先客の団体さんの案内が終わるまで、待つこと暫し、結局その後は私共二名のみを、懇切丁寧に 案内して頂いた。 先ずは庭園に生える 霊木・国指定の天然記念物・樹齢1100年の大蘇鉄の言われの講釈。 (写真撮影 禁止) 戦国末期の永禄五年、信長以前の天下人ともいえる、三好長慶の弟 三好実休が 既に自生していた大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を含む寺領五百石を寄進し、日珖が開祖となるも、実休が戦死、それが遠因で三好一族の落ち目が始まる。 然し 日珖の父である堺の豪商 油屋常言らの協力で境内の堂塔伽藍を建立。 後に 皇室より 勅願寺に定められたとかや・・。 その後も 歴史の嵐に弄ばされ、曰くありげな話では織田信長に大蘇鉄を所望され、安土城に移植されるも、夜毎庭の蘇鉄に呪いの言葉をかけられ、切り倒したが、堺に戻され法力で蘇ったとか・・・、 更に有名な話では、「本能寺の変」直前、信長の勧めで、堺で蘇った蘇鉄見物に来ていた家康が、この寺にのんびりと宿泊時、京都に居た同じ堺出身の「茶屋四郎次郎」が早馬で変事を通達、急遽 伊賀経由で無事落ち延びた話は有名。 お陰で茶屋四郎次郎 一族は京都で歴代徳川家ご用達の大商人となるも その縁で、慶長二十(1615)年、大阪夏の陣で、覚え目出度い当寺に滞在していたのを聞き込んだ 大阪方 大野治房隊によって、全山灰燼に帰したとか・・ 時は移り、尊王攘夷の幕末、慶応四(1868)年2月15日 フランス軍艦が 堺港に入港、勝手に測量等し放題を聞き、更に、水兵百人が上陸し市内を闊歩し婦女子を追い回す等傍若無人の振る舞いに、堺警備役の土佐藩士が応対、言葉が通じない為、両者銃撃応酬となり、仏水兵11名の死者を出し、俗に「堺事件」として国際問題となった。 フランスに賠償金を払い、土佐藩士20名に切腹が命じられ、同年2月23日「妙国寺」で日仏立会人の面前で 堂々割腹自刃。11名が切腹を遂げ12人目になる際、フランス立会人がその壮絶の様を見るに堪えがたく、切腹は急遽中止。残り9名は土佐へ 流罪名目で、駕籠に載せられ、悠々立ち去った旨。 その折「坂本龍馬」が生きておれば同郷のよしみでそこ迄こじれず共、押し留められた筈、と調べると、既に前年の慶応三年、十一月十五日、薩長同盟や船中八策も成し遂げた後、京都・近江屋で何者かに襲われ、死亡していたとは・・・残念。 ガイドさんと 話に身が入り、ついでに昭和20年の戦争中 堺市内が空襲で全山が焼けて再興したが、僅かに残った宝物倉から当寺に伝わる、重要文化財の備前長船の脇差に甲冑や鉄砲迄 見せて頂いた。 誠に 堺のこの「妙国寺」一寺の来歴に 我が国の正史にも残る 戦国末期から 織田・豊臣・江戸・幕末を経由し、大東亜戦争迄 語り尽くせそうにない程の、物語りが込められて おりました・・・ <追記> 歌人で名高い 与謝野晶子は同寺近くの堺女学校技芸科-現府立泉陽高校卒で 「故郷」と題し 次の歌を詠んでいる。 ・・堺の街の妙国寺・・その門前の包丁屋の・・浅葱暖簾の間から ・・・御寺の庭の堀の内・・鳥の尾のよにやわらかな ・・青い芽をふく蘇鉄をば‥立って見上げたかなしさか ・・・御堂の前の十の墓・・仏蘭西船に斬り入った・・重い科ゆえ死んだ人 ・・その思出のかなしさか・・いいえそれではありませぬ ・・・生まれ故郷に来は来たが・・親の無い身は巡礼の ・・さびしい気持ちになりました・・・・・・・・・・・与謝野晶子 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 22, 2020 05:47:44 PM
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