いつか来た道、古新聞で読む「昭和七年」(7)
濱口雄幸総理が東京駅頭でテロリストに撃たれ、その傷がもとで退陣した後を継いだ第2次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した結果満州事変最中の 昭和6年末12月13日に立憲政友会を中心とする政党内閣の犬養内閣が成立したが、しかしこの年も 昭和7/01/08 皇居桜田門外で 陸軍始観兵式行幸より還御の天皇に不敬朝鮮人による爆殺未遂事件が発生(桜田門事件) と言う 不穏な事件と共に始まった。(添付写真 右上、東京日日新聞 一月九日(土)版)昭和7/01/28には 日本人僧侶殺害がきっかけとなって、上海で日中両軍が衝突(上海事変)も発生し、昭和7/02/29 国際連盟よりリットン調査団が満州調査の為、来日するなど、諸外国も中国に対する日本軍部の行動に不審を持たれていた。犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かっていた。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。しかし昭和7/05/15 、これに不満な海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が乱入し、『話せば判る』と諭す犬養首相に、「問答無用」と射殺した。(五一五事件)(添付写真 左上 東京日日新聞 五月十六日(月)版)この事件の後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がり、新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、日本は一気に軍国主義に傾き、これが事実上戦前最後の政党内閣となった。昭和7/05/26 挙国一致内閣、斎藤実内閣が成立し。国際非難の中,昭和7/09/15日本政府は 日満議定書を調印し、軍部の要求通り満州国を正式に承認した。 (添付写真 右下 東京日日新聞 九月十五日(木)版)五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺したテロリストに死刑も適用しなかったことが、さらに大掛かりな 二・二六事件の遠因となったとも言われる昭和7/07/30 ロサンゼルスで第10回オリンピックが開催され。陸上では南部忠平(日本、陸上男子三段跳) 西竹一 (陸軍軍人。男爵、)(日本、馬術障害飛越競技 水上では鶴田義行(日本、競泳男子200m平泳ぎ) 宮崎康二(日本、競泳男子100m自由形) 北村久寿雄(日本、競泳男子1500m自由形) 清川正二(日本、競泳男子100m背泳ぎ) 宮崎康二・遊佐正憲・豊田久吉・横山隆志(日本、競泳男子800m自由形リレー)らが金メダルに輝き、 水泳王国 日本が世界を圧倒し,国民は沸き返った。(添付写真 左下 東京日日新聞 八月十四日(日)版)