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耳(ミミ)とチャッピの布団

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あきても@ Re:ダグラスDC-4(04/25) New! 廃棄されずに 払下げですか・・ いつまで…
空夢zone@ Re:ダグラスDC-4(04/25) New! ミミちゃんのお腹の白い毛はとっても綺麗…

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Jul 3, 2017
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カテゴリ:カテゴリ未分類
江戸幕府の公式記録「徳川実紀」によれば、若くして三河を平定した家康の祖父、松平清康が尾張の織田を攻める最中の守山城攻略戦で、家臣の阿部正豊に後から袈裟懸けでズンバラリンとやられてしまったのが徳川家と「村正」との因縁の発端。

傷は右の肩先から左の脇腹まで達していたといいます。
敵城の大手門まで攻め上ったところでの暗殺事件で松平軍は撤退。
その後勢力は衰えていきます。
「守山(森山)崩れ」といわれる事件です。清康は享年25歳でした。


さらに、家康の父、広忠も家臣 岩崎弥助に暗殺されましたが、その時の刀も村正。
さらに、家康嫡男の信康が切腹する折に介錯したのも村正。
さらに、家康自身も村正の槍を検分している時に手を滑らせ指に怪我をしたのをかわきりに、村正の刀で何度も傷を負っています。






と云うワケで「徳川を4代にわたって害したため、徳川家康が直々に持つことを禁じた。徳川家に仇なす妖刀」として有名になったのと同時に、江戸から明治へと変わる幕末には、幕府に敵対する倒幕派の志士たちが"縁起物"として、こぞって村正の刀を求めたといいます。

皇族でありながら、自ら志願して幕府討伐軍の総司令官に就任したバリバリの倒幕派、有栖川宮 熾仁親王は、腰刀として村正を身に付けていました。
「徳川に仇なす」という縁起を担ぎ、あえて村正を選ばれたのです。


真田、島津、鍋島、福島といった豊臣恩顧の大名達も密かに所有し、由井正雪も村正愛用者だったと噂されています。
ところがです、家康は特注でもしたのか、異色の逸品と評される村正の刀を愛用し、決して手放さなかったとも伝えられているのです。
この村正は、愛知県の「徳川美術館」に現在も収蔵されています。
家康側近中の側近、本多忠勝の振るった名槍「蜻蛉切り」も村正ブランドだったそうです。

これはいったいど~云うことでしょう?
徳川に仇なす刀を家康も愛蔵していた?
実は、村正は「数打ち」という大量生産を目的に製作されてた刀だったのです。
本来、数打ちは、基本的にどれだけ安く早く大量に作れるかが重要で、武器としての性能は低い粗悪なものです。
それが村正は、数打ちだけど、斬れ味は鋭いという、奇跡的な刀、つまりコスパ抜群の刀だったのですね。

村正は伊勢桑名に住し、現存する最も古い年紀が文亀元年。
これを初代として、二代は天文、三代は天正頃で、二代が特に上手であるとされています。
つまり室町時代中期から江戸時代(14世紀~16世紀)にかけて活躍した刀匠一家と云うワケですな。
出身は「関の刃物」で世界的に知られている刃物の名産地、岐阜県南部の関市です。

名高い刀と刀匠を数多く輩出した「関鍛冶」の出身ですから、いくら数打ちでもデキが違う。
初代村正は、かの名工正宗に師事したともいわれております。
正宗は「斬れるだけでは真の名刀とはいえない。斬れ味にこだわり過ぎる心は邪気となって刀に宿り、斬らなくてもいいものまでを斬ってしまうのだ」と諭しました。
しかし村正は「斬れることこそ刀の真髄」と云い残し、正宗のもとを去ったといいます。

現に村正は美術品として見た場合の評価がとても低いのです。
正宗のように、日本政府から国宝や重要文化財などに指定されたものはひとつもありません。
すなわち村正の刀には美術的、文化的な価値がほとんどないと云うことです。
美術的な価値はなくても、コスパ抜群でよく切れる方が実用本位の戦国時代ではこっちが勝ってたのは当たり前です。
大量発注に応じてくれて価格は安く、さらによく斬れる。
村正が住んでいた地域周辺を所領とする大名や武士たちは、こぞって村正の作った武器を買い求めました。
もちろん村正も、それに応じて大量の刀を作っていったのです。

その地域周辺の大名や武士たちって誰ですか?
江戸幕府を開く前、徳川家が治めていたのは三重県の東隣にある現在の愛知県岡崎市周辺です。
村正の工房があった三重県桑名市とは直線距離で約50km。
比較的近い場所にありました。
また、三重県と愛知県を挟む伊勢湾は穏やかで、古くから海運が盛んに行われていた場所です。

つまり三河武士にとって村正はとても身近な存在だったのです。
家康の祖父も、家康の父を殺害したのも三河武士です。
家康の多くの家臣が村正の刀を持っていたため、村正の刀はたまたま徳川家に害をなしてしまったと云うワケです。
で、結果として妖刀扱いを受けるに至った。
日本史上稀有の実利者である家康が、巷間噂される村正の妖刀話を鼻で笑った事は想像に難くありません。
「刀は斬れてこそなんぼ」それが家康の心情だったのでしょう。

ですが「村正は徳川を祟る妖刀」という噂がいつしか生まれ、広がって行きました。
やがて「妖刀村正」の登場する歌舞伎や講談がいくつも作られ、それによって妖刀村正伝説は一般市民にまで広く知られるところとなり、完全に定着したのです。
おかしなことに、時代が進むにつれて当の江戸幕府内でさえ「村正は忌むべき存在である」という認識を持つに至っています。
中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」
整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。
心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。
すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。
なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。

「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。
そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
中之島公園の猫たち





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Last updated  Jul 3, 2017 05:09:09 AM
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