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テーマ:猫のいる生活(136518)
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みなさんは黒澤明の傑作映画「七人の侍」をご覧になったでしょうか?
この映画で三船敏郎扮する「菊千代」が所持しているバケモノみたいな「刀」でてきます。 これは映画用の空想ではなく、「野太刀」と呼ばれる本物の刀ですね。 野太刀は大太刀と呼ばれる「長大な刀」で、刀身の長さが三尺(約90cm)以上のものを指します。 刀身の長さが90cm だったら、大したことないと思われるでしょうが、昔の日本人の平均的な身長が150cm ~165cm と比べると非常に大きい物であることがわかります。 この刀はもともと騎馬武者が馬上から馬の走る勢いで斬る武器でした。 長いリーチを生かして、相手方の攻撃を避けつつ、相手を落馬させたり、相手の馬の足を狙って馬をつぶすことを目的に作られました。 そのため乗馬の時は片手で太刀を扱うことが基本の武具として発展しました。 馬上で両手で太刀を構えたのでは手綱を握ることができず、馬を操ることができないからです。 通常の太刀は柄の中程を握り、柄の一番端の部分に付けられた手貫緒(てぬきお)と呼ばれる紐を手首に通して刀の脱落防止としました。 しかし、野太刀の場合は鍔元に近い部分を握り、手貫緒を肘の部分に通して締めます。 拳と肘の二箇所で柄を保持し、刀の重さを支えるためです。 刀を振る際は肘から先の前腕を一体として振り、通常の太刀のように手首を動かすことはしません。 そんなことをしたら、刀の重さを支えられないばかりか、手首を痛めてしまうことになるからです。 当時の騎馬武者を描いた絵図には、抜身の野太刀を握った手を肩の高さまで上げて刀身を肩に乗せているものが描かれていることがあります。 これは一旦抜いた野太刀を保持し続けることは重量的な面で苦しいため、肩に乗せることで疲労と腕を痛めることを防ぐためだったのです。 このように野太刀は本来、騎馬武者のために作られた刀でしたが、腕力を誇る武士が馬に乗らない白兵戦で使用する場合もありました。 これが冒頭で述べた「菊千代」の使い方ですね。 こうして地上で使われるものになるにしたがって、柄は両手で持って扱うことが容易なように長くなっていきました。 こうして野太刀は「中巻野太刀」、やがて「長巻」へと発展してゆくのです。 そのため野太刀として使われるに従って柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めたものが作られるようになったのが中巻野太刀です。 中巻野太刀は、小柄であったり非力であったりと野太刀を振るうことが難しい者でも用いることが出来る上、通常の刀よりも威力が大きく、振る、薙ぐ、突くと幅広く使えるために広く普及しました。 「太閤記」では秀吉や信長が好んで使わせたとあります。 これを発展させたのが「長巻」です。 野太刀をわざわざ改良するのでなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じもしくは多少長い柄を付けたものが長巻です。 長巻はしばしば「薙刀」と同様のものと混同されますが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」。 対する長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」で、まったく別物です。 戦国時代には、朝倉氏や長尾上杉氏が「力士隊」と呼ばれる巨躯巨漢の者を集めた部隊を編成し、野太刀を持たせて戦わせたことが記録されています。 朝倉氏の家臣である真柄直隆、真柄直澄の兄弟は、共に戦場で五尺三寸(約175cm)の野太刀を用いて奮戦し、両名ともに姉川の合戦で討ち取られたものの、その大太刀は「太郎太刀」「次郎太刀」の名で現在に伝えられています。 画像は朝倉家の武将「真柄直隆」が使用した野太刀です。 真柄直隆は姉川の戦いで奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく単騎で徳川軍に突入。 12段構えの陣を8段まで突き進みました。 しかし向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てたと云う荒武者です。 直隆の身長は2m を超え、体重250kg に達していたと云われています。 なので175cm もの巨大な野太刀「太郎太刀」を振り回すことができたのだと(ほんまかいな?) 野太刀は通常の場合、背負うか従者に持たせて携行していました。 自らの手で運ぶ場合は、かなり長い大太刀を引き抜くことが可能でした。 戦いの始まる前には邪魔になるので、鞘を捨てることもあったそうです。 通常は従者が手で運びます。 野太刀を引き抜く際には従者に鞘を持たせて、馬に乗った武者が引き抜くようです。 長い刀と云うと、「巖流島の決闘」で武蔵と決闘して破れた佐々木小次郎の「物干し竿」が有名ですね。 実は小次郎の物干し竿は「備前長船長光」と云う野太刀は野太刀でも、刃長3尺余(約1m)しかありません。 しかも、この決闘時、武蔵は20代で小次郎は60歳近くだったと云われています。 記録では赤穂浪士のひとり、堀部安兵衛が野太刀を持って吉良邸に討ち入ったとあります。 しかし、これはヘンです。 野太刀は本来、屋外で使うもので、家の中で振り回すものではありません。 それに時代は将軍綱吉の時代で、戦国時代とは違い野太刀など簡単に手に入らないハズ。 なにより戦国時代も末期になると、戦いの主流が徒歩の集団戦になり、長槍、打ち刀が主流で、野太刀は廃れていきました。 なので、これは後の時代の戯作者が野太刀のことをよく知らないまま創作したのでしょうね。 大隅の豪族、肝付氏は代々この野太刀を愛用していて、肝付家の家老であった薬丸氏が「野太刀流」と云う剣術を編み出しました。 また、その影響からか薩摩島津氏の島津家久も、野太刀を愛用していたそうです。 この「野太刀流」と薩摩の「示現流」をミックスさせた物が、幕末に薩摩の剣客が学んだ「野太刀自顕流」です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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