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テーマ:猫のいる生活(136036)
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ヨメの友達がモスクワ旅行にいってきました。
もちろんパッケージ旅行です。 ロシア旅行はだんぜん厳寒期がいいとの弁でしたが、モスクワの1年で最も寒い2月5日の平均最低気温は -11℃、最高気温でも -5℃なんですよ~ これを意外に暖かいと云うのか、やっぱり寒いと云うのか? しかし行ってみたいですね、ロシア旅行。 なにしろ広いから、見るとこ多くて、行き出したら病みつきになりそう。 でも関空からモスクワまで13時間~14時間かかります。 とても耐えられないです。 ロシアがまだ赤の時代の社会主義国家だったころ、西側諸国の文化は禁忌とされていました。 それでも若者たちは、西から生まれたロック文化を吸収しようと必死だったのです。 情報が統制されている中、彼らがどんな手段で西側の文化を知りえたのかは分かりません。 しかし時代の最先端を行きたかった彼らは、ソルホーズ、コルホーズといった時代にゴス、パンク、ロック、ヘヴィメタなどを吸収していったのです。 ロシア自体が一般の日本人には縁遠い存在なのに、ロシアの周辺諸国となるともっと縁がないとこ多いですね。 ど~もロシアと云う国は、ヨーロッパでもない、かと云ってアジアでもないような... その周辺国と云うと、もっとヨーロッパ色は薄れています。 ソビエト連邦構成共和国とは旧ソ連時代、それも1956年~1989年に存在した共和国です。 全部で15の共和国がありました。 しかし共和国と云っても、自分たちの意志でソ連の構成共和国となったのではなく、なかば無理強い的にソ連の圧力に負けてソ連に直属する形で国家を構成していたのが多かったようです。 これらの国々の多くは、ソ連に牛耳られる前は、ドイツ軍によって牛耳られてたので、散々な歴史をかかえてる国が多いです。 1980年代の終わりになるとソ連内部の組織自体が瓦解直前で、とうぜんこれらの共和国にも影響が及びます。 結局、1991年におこった共和国の脱退によって、ソ連は崩壊しました。 共和国はこのとき全ての国家が独立国となり、独立後の政府の多くではソ連時代の首脳が引き続き政府を構成したのです。 なをソ連崩壊時にはエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国はすでにソ連を脱退しており、12ヵ国となっていました。 ウクライナは1917年に成立したウクライナ人民共和国がその祖で、その後、いくつかのソビエト共和国を併合し、1991年まで存続した社会主義国家です。 第2次大戦後、天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、目覚しい復興を果した結果、ソ連の繁栄にも欠くべからざる存在でした。 1991年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、後を追うようにウクライナは国家の独立を宣言。 ウクライナ共産党は解散し、国号も「ウクライナ共和国」を経て、ウクライナに改められたのです。 ウクライナの首都はキエフで、ウクライナになってからも首都のままです。 東ヨーロッパにおける最古の都市で、その起源は5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落までさかのぼります。 勇敢で有名なコサックの連隊の中心地がキエフです。 今日、ウズベキスタン共和国として知られている国は、1991年までウズベク・ソビエト社会主義共和国と呼ばれていました。 1990年になって、やっと大統領職を制定し、翌年ソ連から離脱し独立国家となったのです。 ウズベキスタンの首都はタシュケントです。 いわゆるオアシス都市ですな。 最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長しました。 ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えていますが、町並みからは徐々にロシア色は消えつつあります。 カザフスタン共和国として独立したカザフ・ソビエト社会主義共和国もまた1991年に国名の変更が採択され、同年ソ連から離脱して独立国家となった国です。 現在のカザフスタンの首都はアスタナですが、1998年まではアルマトイが首都でした。 アルマトイは今でも最大都市として君臨しています。 1991年にソ連を解体し、独立国家共同体を始動した協定はここアルマトイで調印されました。 白ロシア・ソビエト社会主義共和国と云うのは、現在のベラルーシです。 「ソ連8月クーデター」と呼ばれる、ソ連改革派のゴルバチョフに対し、ゲンナジー・ヤナーエフら守旧派が起こしたクーデターですが、エリツィンを中心とした市民の抵抗により失敗に終わり、逆にソ連崩壊を招いた事件です。 この8月クーデター失敗が引き金となって、白ロシア・ソビエト社会主義共和国のソ連からの独立が認められました。 白ロシア・ソビエト社会主義共和国の時代からベラルーシの首都はミンスクです。 第二次世界大戦後、町は周囲の村を組み込みながら急速に復興しました。 かつての建築を再建するのでなく、スターリン様式の都市計画が行われ、無機質な建築が建てられていったのです。 1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故では発電所のあったウクライナよりベラルーシが被害を受け、ベラルーシの地方の住民の多くがミンスクに移り住みました。 1920年に赤軍のアゼルバイジャン侵攻によって成立し、1922年のザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部としてソビエト連邦を構成したのが、アゼルバイジャンの前身です。 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の首都は現在と変わらずバクー。 イチェリ・シェヘルすなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれます。 その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっているのです。 スターリンの統治のもと、数多くのグルジア人たちが処刑された国です。 独立後はロシア語由来とされる国名の「グルジア」を排除して英語名の「ジョージア」を「基準的な外名」とする方針を積極的に打ち出してます。 トビリシは、ジョージア(グルジア)の首都。 トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされています。 首都のドゥシャンベは、タジク語で「月曜日」という意味です。 月曜に市場が開かれた村から急成長したためです。 タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しい国ですが、内戦終結後の経済発展は著しくなりました。 主要産業はアルミニウムの生産と綿花栽培。 そして何より重要なのは海外での出稼ぎ労働者からの送金です。 人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金しています。 今では自国民の愛国心を高めるため、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を廃止。 産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止しています。 最近では、テレビ番組に外国風の衣装を身に着けたキャラクターを登場させることを禁止する他、仕事で海外から渡って来た人たちにも多言語を使用ことに制限が設けられてます。 中世のモルダビア公国以後、トルコとソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。 1991年、ソ連の崩壊に伴いモルドバ共和国として独立しました。 キシナウはモルドバ共和国の首都。 ルーマニア語の「泉」と「新しい」に由来してます。 この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成されました。 地勢は大部分が平地で、中世より葡萄栽培が盛んです。 また電気工業、機械工業、繊維産業、ゴムやプラスチック製造などが盛んな工業都市でもあります。 しかし2015年には国内の銀行から約1,200億円が消える事件が起こり大規模な反政府抗議へと繋がりました。 この消えた金はモルドバGDPの15%に相当する金額だったのです。 ドニエストル川にはビーチが在り、そこでの水泳や日光浴を楽しむことが出来ます。 しかしモルドバ政府の民族主義的政策に反対した「沿ドニエストル」の独立紛争との関係上、身の安全性を欠くことがあるため、一般の観光客は立ち入らない方がよいようです。 旧ソ連を構成していた中央アジア5ヶ国で「最も民主的」といわれています。 キルギスは1世紀ごろ匈奴の支配下に入ったのをかわきりに、6世紀には突厥、7世紀には唐、8世紀には回鶻、13世紀にはモンゴル帝国の支配下と、時代時代の覇者に牛耳られて来た土地です。 そして1865年にはロシア帝国に併合。 現在の政治体制は共和制で、国民による直接選挙で大統領と議員が選出されます。 大統領の任期は6年で、再選は禁じられているのです。 隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、ローマやサンフランシスコと同じ気候区なんです。 クムトール鉱山は世界屈指の金鉱山ですし、水銀の産出量は世界第3位を誇っています。 伝統的なキルギス料理では羊肉や馬肉を用いることが多く、さまざまな乳製品を多用します。 羊肉はキルギス人が最も好む肉です。 キルギスの国民食とも云えるベシュバルマクは馬肉を数時間煮込み、自家製の麺の上に載せた後、パセリやコリアンダーをふりかけて食べる料理です。 馬肉の代わりに羊肉を用いる場合は、ゆでたヒツジの頭は主賓のテーブルの前に置かれ、主賓は頭部を切り分けて同じテーブルの他の客に取り分ける習わしがあります。 独ソ戦勃発後は、ナチス・ドイツの占領下にあった国です。 第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、再度、ソ連構成共和国となり社会主義化が行われました。 旧ソ連構成共和国では、もっとも急進的な独立運動が展開した国で、1990年に独立回復宣言を発表しました。 リトアニアの首都はヴィリニュスで、同国最大の都市でもあります。 かつてはポーランド領だったこともある都市です。 1994年に旧市街はユネスコの世界遺産に登録されました。 リトアニアが独立するきっかけとなった有名な事件があります。 1990年、ヴィリニュスの共和国最高会議議長に就任した非共産党員ランズベルギスは、ソヴィエト連邦を構成する共和国で真っ先に独立を宣言しました。 これに対しゴルバチョフ政権は、1991年の夜、ソ連軍部隊の戦車が首都ヴィリニュスの重要拠点の占拠に向かったのです。 リトアニアの市民は最高会議の建物やテレビ塔の周りに集まり、人間の盾を作りました。 それをソ連兵がテレビ塔を守ろうとしていた非武装の民間人に発砲したのです。 13人が殺害されました。 これが有名なリトアニアの「血の日曜日事件」です。 この事件が契機となりリトアニア政府は態度を硬化、リトアニア独立革命へとつながっていくのです。 トルクメニスタンは元はトルクメン・ソビエト社会主義共和国と呼ばれていました。 1991年の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、トルクメニスタンとして独立した国です。 首都はアシガバートで、1919年~1927年の間はポルトラツクと呼ばれていました。 主要産業がガラス製造、ぶどう酒醸造、綿織物業などですから、そんなに裕福な国ではないですね。 しかし、道路にチリひとつ落ちてないなぁ。 アルメニアはソ連崩壊までずっとソビエト社会主義共和国だった国です。 ソ連から独立を宣言したのは1991年のことですが、1995年の憲法改正まではソ連の機構を保持したままでした。 ソ連時代に農業国から工業国への転換を果たしています。 首都エレバンは、現存する世界最古の都市の1つとされており、また創世記に語られている「エデンの園」が存在していたという伝承のある地でもあります。 ラトビアは第2次世界大戦以前は独立国でしたのに、大戦が起こると1940年にエストニアやリトアニアとともにソ連に占領されたのです。 加えて独ソ戦勃発後は、1941年~1944年まで、ナチス・ドイツの占領。 第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、再度、ソ連構成共和国となり社会主義化が行われました。 独立できたのは1991年のソ連8月クーデター失敗に伴ってです。 首都のリガは「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコの世界遺産に登録されています。 1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵攻し、ラトビア人を大量に処刑したりシベリア送りにしたことから、市の人口は1/3まで激減することになりました。 その代わりにソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガ市の民族構成は一変してしまったのです。 その後、ラトビアは独立を回復し、リガも首都に返り咲きました。 エストニアもラトビア同様、ソ連に占領、編入された後、独ソ戦勃発後はナチス・ドイツの占領。 第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、1991年にソ連から独立した国です。 首都タリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の1つで、旧市街は世界遺産「タリン歴史地区」に指定されています。 ヘルシンキまでは海を隔てて85km と至近にあります。 と、云うように、ひと口にソビエト連邦構成共和国と云っても、広大な土地に民族も違えば、宗教も、文化も違う人たちを十把一絡げにしていたのですから、もともと無理な治世を敷いてたのですな。 今の中国でも同じことが云える。 ソ連改革派のゴルバチョフに対抗した勢力が「ソ連8月クーデター」を起こし失敗した後、たちまちこれらの国々が独立したのは必然性があったのですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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