「神さまに近づく道」 詩篇77篇から
昨年11月に引き続き、カリフォルニアに在住で、「聖書と神学のミニストリー」を主宰されている上沼昌雄先生が、大浜教会にお立ち寄り下さり、メッセージをして下さった。(通常は、祈り会の時間)思えば、上沼先生に初めてお会いしたのは、99年の11月。その時、先生が、蒔いてくれたものは、二つあった。一つは、男性集会、およびプロミス・キーパーズの働き。聖書に立脚した家庭のリーダーとしての男性観の確立の必要性。また、男性は、どうしても、肩書きで生きていることが多いため、なかなか、素のまま、内面をさらけだすことがしにくい。そのための男性集会の必要性を、説いてくださった。もう一つは、ヘンリー・ナーウェン。99年の時には、「カトリック司祭なんだけど、最近、プロテスタントの人にも読まれている本なんとかかんとか・・・」「読んだ人の、好みが分かれる・・・」という感じで、お話されていたことを記憶している。(でも、ナーウェンの名前さえ覚えていないし、当時は、その人の本を読もうとさえ、考えてなかった。)今でこそ、すっかり、はまっているけど、当時は、こんなに、はまるなんて、夢にも思わなかった。その1年半後、第1回目の「生活の中の霊性セミナー」で、太田和功一先生が、ナーウェンを紹介して下さり(本の1冊は太田和先生の翻訳)、読むようになり、読んでいくうちに、「あれれ、これは、もしかして、上沼先生がお話しされていた人ではないか」と、はたと気がついた次第。なんという時間差。 昨年10月には、ネットを検索していたら、目からうろこというか、自分の信仰の生い立ち・根幹にも関わるような文章に出会い、それが、また、たまたま、上沼先生の書かれた文章で、そのHPを読んだ直後の11月に、偶然、大浜教会をご訪問して下さり、直接、お会いする機会が与えられた。(コレマタ フシギナ タイミング!)そして、その昨年11月の時は、その直前に自分にとって試練があり、また、今回も直前に、自分の信仰にとって転機があり、上沼先生とお会いできるタイミングは、自分にとって、さり気なく、ツボを押さえてもらっているような感じ。 (神さま、この不思議なタイミングと導きとを感謝します。)さて、今晩の祈祷会でのメッセージは、詩篇77編から。まず、初めに、先生から質問。「今の気持ちをひとことで、色で表すと何色?」 自己紹介を兼ねて、一人ずつ、答える。自分は、ここ1週間の出来事から、迷いなく「無色透明」というイメージを想起。神さまの前に、隠し通せるものは、何一つなく、自分でもその存在にきづいていないこと、無意識に隠していること、合理化してしまっていることさえ、神さまはご存じで、最善の時に、やさしく、それを示して下さるお方。だから、透明でいたい。また、喜びも悲しみなど、すべての感情さえ、神さまはご存じで、ともに喜び、ともに泣いてくださるお方、そんな意味も含めての「無色透明」。 さて、詩篇77編。 1 私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。 2 苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。 3 私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。セラ 4 あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。 5 私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。 6 夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私のたましいは問いかける。 7 「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。 8 主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。 9 神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ 10 そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」 11 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。 12 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。 13 神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。 14 あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。 15 あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ 16 神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。 わたつみもまた、震え上がりました。 17 雲は水を注ぎ出し、雷雲は雷をとどろかし、あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。 18 あなたの雷の声は、いくさ車のように鳴り、いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。 19 あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。 それで、あなたの足跡を見た者はありません。 20 あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。 ここでは、「神さまに近づく」ための、4つのプロセスが暗示されているのではないか。 ・「叫ぶ」 (1節) ・「嘆く」 (3節) ・「自分の心と語り合う」 (6節) ・「思い巡らす」 (12節)2節では、「苦難の日」、それも、「慰めさえ拒む」ほどの苦難。そのような「苦しみ」の中では、「あ~」とか「う~」とかだけでも、叫べること自体が救い。「苦難」の中で「叫んだこと」が、心に破れ口、窓をつくり出し、神さまとの関わり・交わりを密にするきっかけを与える。別の言い方をするならば、「神さまにとって、働きやすい状態」をつくり出すのではないか。問題はそのまま、状況は変わらない。しかし、「叫び」を受け止められている実感と安堵。 3節で、「嘆き」疲れる様子。あたかも、それまで泣きじゃくっていた赤ん坊が、泣き疲れて、ぱたっと寝てしまう様子さえイメージさせられる。神さまは、苦しむ人の「ギブ・アップ」を待たれているのではなかろうか。 「叫び続け」、「嘆き疲れ」、「衰え果て」、「疲れ果て」て、初めて、見えてくる神さまの計画、聞こえてくる神さまの声・・・。逆に、これらは、叫んでいた時には、気づかないもの。 4節で眠れない様子、6節で「夜」の描写。「昼間」は、紛らわすことが比較的容易。しかし、「夜」の、静寂、暗黒、孤独・・・。試練、困難、生涯負わねばならない重荷・・・。「苦しみ」「逆境」さえ、直視しなければならない状況。 しかし、心の中に聖霊が臨み、遠い昔のこと(=出エジプト)や、歌やみことばを、思い起こさせてくださる。神さまとの交流のパイプは、確実に、強まっているが、まだ、状況を受け入れきれない状態。 たこつぼのように、中は、真っ暗な心。そこに、聖霊の光が当てられる時・・・。「自分の心と語り合う」ことは、そんな「心の傷との語り合い」ではないか。そして、それは、すなわち、「神さまとの語り合い」に他ならない。 7節から10節、「神さま、どうして?」との問いかけ。問題は解決していない。状況は変わっていない。 その中で格闘し続ける姿。 11・12節に至り、「出エジプト」前の苦難と、自らの苦難が、完全にオーバーラップ。苦しみ続けているのは、自分だけでなかったことの、気づき。そして、「出エジプト」という解放・奇跡を与えてくださることのできる神さまへの希望。こうして、「思い巡らす」ことが、可能なところまで導かれる。 13節以降は、最後の20節まで、「出エジプト」で、神さまがなして下さったみわざを、書き連ねる。そこには、作者の失望から希望へ、捕らわれから解放への転換が見て取れる。同時に、時間をかけ、格闘しながら、神さまに近づいていった過程も。 依然、問題は解決していない。状況は変わっていない。しかし、作者の立つ位置は変わった。 --- --- --- --- --- 時に、理不尽に思えるような困難や悲しみ。しかし、「叫び」「うめき」「嘆き」を、しっかり受け止めてくださる神さま。そして、心の中に、静かに、計画やみことばを入れてくださる聖霊さま。 この失望に終わることのない信仰を与えられていることを、もう一度、心から感謝しよう。そして、いつも、時を得た必要なメッセージを携えてくださる上沼先生を遣わしてくださる神さまに感謝!!