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2019.06.29
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<地図>
 大庭城跡は、藤沢宿の中心部から北西約2.5Km、引地川の湿地に突き出す舌状台地の南側先端部に、15世紀中頃に扇谷上杉氏 が築城した丘陵城郭である。後に小田原北条氏が16世紀前葉に大規模に改修拡張した。比高差約30mほどの急斜面と周囲の低湿地を最大の防御 としている。築城の主目的は、城の東側に位置する藤沢宿の防衛と確保であろう。藤沢宿は、東海道と江ノ島道・津久井甲州街道が 交差する交通の要衝=遊行寺の門前町と宿場町で、相模国東部では鎌倉に次ぐ規模の都市・町場であった。大庭城と直線距離でわずか 6.7Kmほどしか離れていない場所に規模の大きい玉縄城がある。通説では、玉縄城は、伊勢宗瑞が1511年10月に上杉氏と三浦氏を遮断 するために築城したとされているが、これ以前に山内上杉氏方によって鎌倉を防衛するために築城された。玉縄城は相武国境近くに 突出した境目の城であり、軍事的緊張がもっとも高まった中で改修拡張されたことになる。城郭は改修・築城期問は防御力が著しく
 低下する。伊勢宗瑞は、改修途中の玉縄城を破られても、境川と引地川を防衛ラインとする大庭城でくい止める方策を講じたのでは ないだろうか。「まず先に親の大庭城を改修拡張して子の玉縄城をバックアップする→次に玉縄城を改修拡張する→お互いに バックアップしながら交互に改修整備する→玉縄城が整備拡充されてゆくと親の大庭城の必要性は減少する」。大庭城は、親が子供 の成長とともに隠退するように、廃城されたのではなかろうか。このような城郭の親子関係は鶴見川沿いの親・茅ヶ崎城と子・小机城
 でも想定される。大庭城は、①II郭堀切に折れを加える改修拡張、②III郭拡張、③外郭拡張の三段階の改修が推定され、外郭北西角の 大門は西側住民収容のために最終段階に新設された。大庭城跡Ⅱ郭の虎口は、1616年に落城した三浦新井城の平入り虎口よりも発達した 後出のタイプである。北条氏の国境境目が多摩川を越えるのは、1534年1月の江戸城奪取以降であり、大庭城はこれ以降に廃城された
 と考えられる。
 <遺構>
 城域は南北約700m、東西約350mであるが、北側の外郭部の防御性は低い。現在、南半の約450mが城址公園として保存整備されている。 主郭は南先端で、北に向かってII郭・III・外郭を配置する。 田中祥彦氏は、I・II郭が上杉氏の段階の城郭で、上杉氏関係の城郭に 共通する形態と規模で、横浜市都筑区の茅ヶ崎城跡に極似すると指摘する。段丘崖・丘陵崖を利用して、大きめの郭を3から4つ程度 連ねる形態は、埼玉県嵐山町の菅谷城跡、東京都調布市の深大寺城跡、茅ケ崎城跡などの上杉氏関係の城郭に共通し、大庭城跡もこの 系譜に属する。発掘調査は1968~71年に5回実施された。I郭の堀切はI郭の平面からマイナス5.4m、上幅7-8m、II郭の堀切は地表下 マイナス5m、上幅10mであった。主郭を画する堀切は折れがなく、II・III郭の堀切はそれよりも大型で折れがある。堀切の 折れと III郭・外郭は北条氏による拡張改修であろう。虎口は、II郭の北東隅にあり、斜面を登りながら二回折れてII郭内に入る、かなり複雑 な構造である。腰郭は西側が幅も広くて発達しており、西側の防御性が高い。東側の虎口の位置と併せると、相模国中央部から鎌倉周辺 は、鎌倉公方足利成氏と幕府方の管領上杉氏の対立に始まる享徳の乱(1455~83年) の主戦場の一つとなった。杉山博氏は、大庭城の 築城と廃城の時期と経緯について次のように推定している。①相模守護・扇谷上杉氏の東相模支配の拠点として、文明年間初頃(1469)~)
 に築城され、家宰・守護代太田道真・資長(道灌)が大庭の地を支配した。②伊勢宗瑞(北条早雲)は、岡崎城(伊勢原市・平塚市) に拠って相模中央部から東部と三浦半島を支配する扇谷上杉方の三浦道寸を永正9年(1511)8月の「岡崎城の戦い」で撃破して住吉城 (逗子市)に逐い、岡崎城、大庭城、玉縄城(鎌倉市)を接収した③伊勢宗瑞は1516年7月に三浦新井城の道寸を攻め滅ぼした。 ④大庭城はこれ以降、玉縄城が小田原城の重要支城として整備されるにつれて廃城された。
 <歴史>
 北条氏は、他の戦国大名のように家中の内紛や家督相続を巡って内乱が起きたことがなく、本城の小田原城まで攻められた永禄年間の 1561~2年の上杉謙信、1569年の武田信玄の侵攻以外は、相模国内が戦場になることはなかった。上杉謙信と武田信玄は深刻な飢饉 に対処するために、食糧を求めて関東に侵攻したと考えられており、特に上杉謙信の侵攻は、相模国内がことごとく亡国になったと いわれるほど深刻な略奪と人さらいの被害を受けた。戦国時代の城郭は、これらの危機から住民・領民を収容保護する避難所でもあり、 領土は領民保護と徳治の義務を負い、領民はその対価として年貢と諸役を負担した。北条氏は、相模国内では津久井城(相模原市)・ 玉縄城(鎌倉市)・三崎城(三浦市)の三支城しか配置していない。この三支城だけでは領民の収容保護は無理である。住民・領民の 避難所はどうなっていたのであろうか?下山治久氏は、城跡の使用について次のような興味深い指摘を行なっている。①「(城跡は)
 城郭や寺社の構築材の材料の供給地、一朝有事の際の伝えの城、兵の集合場所、農民の避難場所として使われた。茅ヶ崎城のような 大規模な城址では部分的に改築して砦や城塞として、普段は番兵を置く程度にして保存し、合戦の時には兵力を寵めて使用した」。 ②「戦国時代からある目的をもって、郷村内部の共有地として保存されてきた中世の城塞は、江戸時代には自然森林の保存地で、村落 の入会地として長く保存され、旧領主に対する畏怖や尊敬の念から、田畑とせず共有の入会地として保存してきたものが多い」。 大庭城跡は江戸時代には藤沢宿の共有地であった。『新編相模国風土記稿』の高座郡藤沢宿坂戸町の項には大庭城跡が同町の飛地内に あったとある。加藤徳右衛門氏の「藤沢郷土誌』(1980年)の「藤沢の伝説と異聞」では、「大庭城跡は広漠百町歩に近き土地も時 の移趨に藤沢宿の共有財産とはなりぬ(事情詳ならず)。斯くして明治6、7年の頃藤沢宿はこの共有地を売価千円を以て売買」した とある。大庭城跡は城郭建物が撤去された後も、土塁や堀などはそのままにのこされて、藤沢宿町と大庭城跡周辺の住民の避難所、 共有地として、共同管理されていたのであろう。戦国大名は家臣団の身分秩序・序列の確立に腐心した。身分序列の重要な指標の一つ が城持領主身分である。北条氏の場合は、伊豆・相模・武蔵国では、一族・姻族と創業以来の重臣以外には城主身分を認めていない。 支城に取り立てられなかった大庭城の城主名は不明である。城主名が伝承されていないことは城主不在の町村の城であったことを示す。 北条氏は支城領制によって在地の築城権を厳しく制約した。大庭城跡は、北条領国の国境境目が多摩川を越えた1520年以降は、改修拡張 を禁じられた住民の避難所としての維持管理のみを許されて存続したと推測される。
 <関連武将>太田資長、伊勢宗瑞</関連武将>
 <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>





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最終更新日  2019.06.29 06:11:20
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