1635004 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

城めぐり

城めぐり

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

歴城19

歴城19

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

ガーゴイル@ どこのドイツ いろは坂桜公園の近くのお城は稲城城であ…
とんきち@ Re:神奈川県三浦郡葉山町の相模湾に突き出した丘の上にあった鐙摺城(07/09) 鐙摺城の地図上の位置が違うのではないで…

フリーページ

ニューストピックス

2020.08.01
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

関東管領上杉憲政が北条氏に攻められて、逃げ出した居城で最盛期には城下町も賑わったと言われるが。今は主要部分が小さく残されているが、周囲は農家と畑の台地となっている。二回目に訪問した際、隣接する農家が豚を飼育されているようで、城址にそぐわない匂いに長くいることができなかった。そこから見える山には、金山城の要害城が構築されていた。この城はかなりの防禦が施された城であったようであるが、平井城が落城した際に使われたのであろうか。
<地図>
神流川の支流鮎川の西岸の台地上に構築された「館城」(館を城郭化した)で、西・南を丘陵に囲まれ、東は鮎川を隔てて丘陵が立地するという盆地状の要害の地である。
<遺構>
本丸・二の丸・ササ郭を中心に、その北に新郭・二の丸などが構築されている。北側は西平井の集落と重なり、また全体に耕地として開発されていたこともあって、発掘調査によっても遺構の確認が不十分にしかできていない。
<歴史>
 関東管領・上野守護山内上杉憲実が永享の乱で鎌倉公方足利持氏と対立し、永享10年(1428)8月に足利持氏は上杉憲実討伐を命じたので、上杉憲実は「山ノ内(鎌倉)ヲ出テ上州平井二退去」とあり、この時点で平井城(館)が上杉氏の本拠地になっていたことが知られる。その後は上杉氏の房顕・顕定・憲房・憲寛・憲政らは五代約一世紀にわたってここを本拠地にし、高山氏・小林氏などの有力国衆に守られて政治的・軍事的な城館、すなわち守護所となした。享徳の乱(1454)では、「上杉房顕ハ上州平井二住ス。後二鎌倉山内二移ル」とあり、平井を本拠地にして上杉方とそれを支援する幕府軍の拠点である武州五十手陣を支えた。永正の乱(1510)の上杉氏の分裂では、武蔵鉢形城を守る上杉顕実に対して上杉憲房は平井城に近隣の小林氏などの軍勢を結集して出撃してこれを落とし古河に敗走させた。
上杉憲政は、天文15年(1546)に北条氏の拠点河越城攻めに大敗北し「憲政が軍敗レテ上州平井二帰ル」とある。天文19年(1550)に北条氏康は平井城攻めに出陣し圧力をかけている。その後、北条氏の侵攻を前に支えきれず、近隣の武蔵国分の金讚城を攻め落とされると天文21年(1552)4月に上杉憲政は平井城を逃れ、新田・足利へ赴くが滞在を拒絶され、各地を転々とした後に「上杉憲政越後二開ク」ということで、越後守護代家の長尾景虎を頼って上野国から退去した。この間に武田氏に帰属する国峰城の小幡氏や北条氏康の攻撃が繰り返された。後に永禄3年(1560)8月、上杉憲政から関東管領職と上杉の姓を譲られた長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣となり、上杉憲政は伴われて関東に入ったが、平井城に一時戻ったか否かは明らかでない。
</歴史>
<関連武将>上杉憲実、上杉房顕、上杉憲政</関連武将>
<出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.08.01 05:16:50
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.