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2023.02.25
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深井城は東武アーバンパークライン運河駅から流山街道を利根運河に出て、利根運河の堤防を西に歩いていき、運河と住宅地の間に緑地西深井散策の森があり、その付近が城址である。それほど高い場所ではないが城の遺構らしいものが残っている。利根運河開鑿のために城域の一部が改変されたのかもしれない。帰りは、近くを散策しながら運河駅に向かった。浄観寺、流山市西深井小など道の脇に墓があって、安蒜家板石塔婆があった。安蒜は戦国時代の武将の名前ではないか。
<地図>
明治23年(1890)に舟運の便をかって、東側の利根川と西側の江戸川に挟まれた7.5キロの台地および水田地帯を掘削し、利根運河が 開通した。このために猪ノ山城と共に、深井城の主要遺構も破壊されたと考えられる。運河開通以前の地形図である明治13年の迅速地図をもってしても、深井城の位置は、今日の不動堂付近の谷津田に突き出た台地が適地とみられる。
<遺構>
現在、わずかながら城郭遺構と考えられる土塁・空堀の一部が残っている。また、不動堂西側の傾斜面あたりも、遺構らしい感じを残している。一方、平坦な台地である西深井字古谷にも、その地名の名残と共に、最近の発掘調査による空堀などの確認によって、深井城ではないかという疑問がもたれている。これはおそらく前者の遺構が戦闘区であるのに対して、後者が小金城や根木内城に みられるように、居館区であったのではないかと思われる。
<歴史>
深井城は、下総国葛飾郡を大きく二分した小金の高城氏支配下の小金領と、関宿梁田氏の支配した庄内領の境界にあたる重要な 地であるところから、高城氏としても重臣を配置し、かなりの警備態勢を固めていたと考えられる。城主についてた、高城家文書などによると、一族の安蒜備前守であったという。しかし、土地に「ヒラカワチ」の呼称のあるところから、重臣の平川氏とか矢口氏などの武将たちも、居館区内に配置されていたと考えられる。
 <関連部将>高城胤吉</関連部将>
  <出典>日本城郭大系</出典>





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最終更新日  2023.02.25 06:45:03
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