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カテゴリ:智積院の四季
智積院の前、東大路に新しく、智積院の案内板が立ちました。
前に書きました、七条大橋のこの案内板と一緒ですので、京都市が順次案内板の整備しているのでしょう。 ところで、智積院のルーツについては、この案内板にも書かれていますが、ルーツは関ケ原の戦いです。 徳川家康が、豊臣家を滅亡させ、豊臣色を払しょくする為、秀吉の建てた嫡男・鶴松を弔う祥雲禅寺を秀吉の天敵、根来寺の塔頭・智積院に下賜したことはこの案内板に書かれていますし、当ブログでも前に書きました。 関ケ原の戦いで西軍(豊臣)に与した長州/毛利家、薩摩/島津家、土佐/長曾我部家は・・・ 徳川の時代になって毛利家は領地の大半を召し上げられ、長曾我部家に至っては滅亡したり、西軍側の武将は反徳川であったことは想像に難くありません。 その反動が・・・・徳川時代末期に、薩摩、長州、土佐などが主となり倒幕に成功させたのでした。 明治維新は正に関ケ原の戦いの敗軍側の政府でした。 関ケ原の戦いののち、徳川家康は阿弥陀が峰にあった秀吉の墓を潰し、祥雲禅寺を智積院に与え、豊臣色を払拭しました。 時は移り、明治政府はと言うと、徳川色を払しょくする為、東照大権現として、神とされていた家康の向こうを張って、豊臣秀吉を神とする豊国神社を復興、形も無くなっていたという秀吉の阿弥陀が峰の墓を再建したのでした。 ・・・という事で智積院は関ケ原の戦いがルーツであり、豊国神社と阿弥陀が峰の豊国廟は関ケ原の戦いをルーツとする明治維新の戊辰戦争の結果として作られたものでした。 ・・・・と言うのが「みんなルーツは関ケ原の戦い」と書きました根拠で、当たらずと雖も遠からずと言うところだと思うのですが・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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