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私:酒井氏は、国際政治学者だから、海外でのつきあいが多いと思うが、その出発点に、三つの記憶があるという。
「その一」、中学生の頃のことで、深夜放送で、フランスに新婚旅行に行った花嫁がブティックに入ったきり行方不明になって、中東の売春宿に売られてしまう、という「オルレアンの噂」が紹介され、海外ではこんな怖いことが起きる、という内容と、DJの軽妙な語り口のギャップで、鮮明に覚えていること。
A氏:「その二」は、大学を卒業して数年後にシンガポールに初めて行ったときで、ホテルや店でさまざまな民族出自の人々が働くのを見て、直感的に「この人たちが日本で働くようになったら、とても太刀打ちできない」と感じたこと。
すなわち、父祖の地に住んでいない(いつか突然出ていかざるを得ないかもしれない)人々が、自らの知力で道を開き自らの力で稼いでいくパワーに、圧倒されたこと。
私:「その三」は、大学時代のロンドンで、初めての海外旅行で、舞台のお芝居を見に行ったとき、前売り券にトラブルがあって入館できなくなりそうだったのだが、アフリカ系のモギリのおじさんが「いいよ、入って。俺が損するわけじゃないし」と言ったこと。
「その一」と「その二」のエピソードは、海外に出て行くのに臆してもいい出発点で、今、若者が日常的に接している、「海外は怖い」「移民はイヤだ」的情報と、似ている。
なのに、「それでも海外に出て行かなきゃ」となった。なぜだろう?と酒井氏はいう。
そして、その答えは、「その三」のエピソードにあり、人はいろんな祖国から来ていろんな土地でひとりで生きていかなければならないけれども、そこで「国家」だの「企業」だの「誰かの利益」だのを背負う必要がない、という教訓。
A氏:それを教訓と言うべきかどうかはわからないが、誰かに守られてしかるべきだと考えると、「怖い海外」や「移民の到来」に臆することに通ずる。
だが、国の庇護を得られなかったり、戻る祖国がなかったりで、そもそもの出身地ではない場所で生活していかざるを得ない人たちは、個人の能力で自らの人生を切り開いていくしかなく、周りに期待しない分、自由で自立的にもなれる。
「その三」のエピソードがくれたのは、個としての自立。
私:欧州で迫害を受けていたユダヤ人は、「詰めたスーツケースの上に座る」と言われた。 いつでも移動できるように備えていたからで、今、内戦や貧困や迫害で祖国を逃れて、周辺国や先進国に新天地を求める人々が、スーツケースに人生を詰め込んで移動している。 ミャンマーのロヒンギャや、シリア内戦から逃げ出した人々、アフリカからリビア経由で地中海を渡る人々。
なかには、祖国でかなりの地位にいた者や、何不自由ないサラリーマン生活を送っていた者もいる。
だが、何かに属していることで自動的に庇護が与えられることが虚構だとわかった今、そのギャップにへこんで潰れる者もいれば、本人、あるいはその子孫がホスト国や国際機関で大活躍する者もいる。
欧米でスポーツ選手やアーティストとして活躍したり、ひいては市長になったり(ロンドン)、国務長官になったり(米クリントン政権)、成功例は多い。
A氏:現代はグローバル化の時代だ、といってメディアや企業、教育機関が提示するのは、朝ニューヨークのオフィスに出勤して午後ロンドンで国際会議に出、スカイブで香港やドバイのカウンターパートと商談を進める、といったエリートのイメージだ。
私:だが、酒井氏は「だが実際のグローバル化は、もっと足元で起きている。人身売買に遭う危険をすり抜けながら、早口で値切り交渉する訛の強い英語に対抗しながら、君は世界を渡っていく度胸があるか。脅しているのではない。背中を押しているのだ」という。
敗戦後、70年、考えてみれば、平和憲法で平和に過ごし、国、企業、家族など誰かに守られてしかるべきだと自然に考えてきた。
年金も健康保険もある。
しかし、グローバル化で、それが虚構だとわかったとき、個としての自立ができるだろうか。
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Last updated
2018.03.15 11:12:22
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