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Ryu-chan6708

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2018.10.05
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今月の「異論のススメ」は、例の「新潮45」の休刊問題、事実上の廃刊問題をとりあげているね。

 

 朝日新聞も、9月26日朝刊で、1面と社会面の両面を使って「新潮45」の休刊を報じているが、この雑誌の休刊がそれほどの重大ニュースなのかと思うが、発端となった杉田水脈氏の文章「日本を不幸にする『朝日新聞』」と題する特集のひとつであり、何やら「朝日新聞」対「新潮45」という構図。

 

 佐伯啓思氏は、の数年、「新潮45」に連載していたので、少し書きにくいのだが、個人的な立場を離れて若干の感想を記しておきたいという。

 

 佐伯氏は、まず、この数年、いわゆる論壇がいささか異常な状態になっているように思うという。

 

その目立つ部分が、論点を単純化し、多くの場合、左右の批判の応酬、それも、たぶんに情緒的な攻撃にも似た状態になり、そこにSNSが加わってともかくも世論に働きかけるという状態になっていて、そうしないと目立たないのであり、目立たなければ話題にならず、もっと端的にいえば「売れない」のだという。

 

評論家であれ著述家であれ、表現者とは、常に自らの表現の内容と形式について細心の注意を払うべきものであり、とりわけ、誰かを傷つける可能性のある文章を書く場合には、必要以上に神経を使うのが当然で、「表現の自由」をたてに何を書いてもよいというものではないという。

 

佐伯氏は、その意味で、杉田氏の例の「生産性」という原稿は配慮が欠け、杉田擁護の論考の一部に問題があったのは事実だと思うが、その後の、「新潮45」バッシングもまた異常であって、杉田氏を擁護する者は、それだけで差別主義者であるかのようにみなされるとすれば、これもまた問題であろうという。

 

A佐伯氏は、杉田氏の論考が評論としての周到さを欠いたものだったと思うが、ここには少なくとも、三つの重要な論点が含まれていた。

 

第一に問題となった「生産性」で、日本では、構造改革以降、この20年以上、あらゆる物事を「生産性」や成果主義のタームで論じてきたが、佐伯氏は、このこと自体が問題だと思うから杉田氏の論旨には賛同しないが、政策判断の基準として「生産性」が適切なのか、どこまでこの概念を拡張できるのか、という論点はあるという。

 

第二に、そもそも結婚や家族(家)とは何か、ということがあり、法的な問題以前に、はたして結婚制度は必要なのか、結婚によって家族(家)を作る意味はどこにあるのか。という論点。

 

第三に、LGBTは「個人の嗜好」の問題なのか、それとも「社会的な制度や価値」の問題なのか、またそれをつなぐ論理はどうなるのか、ということ

 

 しかし、杉田氏への賛同も批判も、この種の基本的な問題へ向き合うことはなく、差別か否かが独り歩きした。これでは、不毛な批判の応酬になるほかない。

 

:俺は、第一の問題については、この「生産性」という用語をLGBTに関して、使うのは、全く不適切で誤用と思うね。

 

 「新潮45」休刊の背景には、SNSにおける激しい批判と、文芸関係者による「新潮社」への抗議があったようだが、もともと作家や文芸評論家を主力執筆者にもっていた同社が、この圧力に屈したということになるが、これも両者ともに過剰反応ではなかろうかと佐伯氏は指摘する。

 

白と黒の間には無数の灰色があり、その濃淡を仕分け、それを描くのが表現者の仕事でありそして、「新潮社」の雑誌の特質は、きれいごとではない、この人間の複雑な様相をいささかシニカルに描きだすところにあったが、それがすべて崩れてしまったという。

 

A佐伯氏は、人間社会の深いところに「正義」の観念はあると思うが、それを振りかざすことは嫌悪するという。

 

それはたちまち「不寛容」になり、それでは議論も何も成り立たなくなるから、人間の行為や人物を白黒に分けて、「白」でないものはすべて「黒」と断定して糾弾する、などということもやりたくはないので、近年の風潮であるいわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)も、基本的には疑いの目をもってみたくなり、自分たちの主張を「正義」として、反対の立場を封印することは「コレクトネス」でも何でもないという。

 

そして、リベラル派が唱えるPCに対するいらだちが、いわゆる保守派には根強くあった(それがアメリカでトランプ大統領を生み出した一因でもある)が、また、その自称保守派も、このところ急激に不寛容になりつつあり、議論の結論だけで、敵か味方かに単純化されてしまい、SNSがそれを増長する。

 

本当に大事なのは、議論の結論というより、その論じ方であろう。

 

私:もともとリベラルも保守も、その基底には「寛容」があったはずで、異なった立場を認め、多様性を容認することは、どちらにも共通する原則であり、この原則だけが、健全な論争を可能にした。

 

だが今日、社会から「寛容さ」が急激に失われていて、それは論壇だけのことではないのだが、せめて紙媒体の論議の場だけでも「寛容さ」を保つ矜持がなければ、わが国の知的文化は本当に崩壊するだろうと佐伯氏は指摘する。

 

すでにブログ「交わるすべなき『高い壁』」で、米国にも「寛容さ」が失われており対立した意見の間に「高い壁」があるという。

 

「壁」が米国の「寛容」を窒息させている気配もし、「政治信条は違っても議場を一歩出れば、与野党一緒に夕食を囲む仲だったが、今は互いに口もきかない」と、ある元州議会議員は昔を懐かしむという。

 

日本だけの問題でないようだ。

 






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Last updated  2018.10.05 17:51:39
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