私のルーツ探しの最終回
このところ、2回にわたって私のルーツ探しをしてきましたが。
もはや、これ以上の発掘はないと思いますので、これにて終了です。
最後に、その他に聞いたことを補足するとすれば、
一、ひおじいちゃんが、山梨の東八代郡境川から神奈川県へと出てきたのは、
駆け落ちだったという話があります。
結局、神奈川県足柄下郡岩村に落ち着くことになったわけですが。
明治30年ころ、ものすごく大変な長くけわしい旅、行く先にはほとんど「つて」のない旅、
地図を広げてみると、山梨県から岩村まで、二人して歩いてくるのはとても無理なんですが。
その事情は駆け落ちだったという話がありました。
その後、明治37年には、岩村役場に転籍届けや出生届けをするまでになったこと。
そして昭和8年には夫人の「ふく」をみとって、死亡届をだしています。
二、神奈川県足柄下郡真鶴町岩の土地柄というのは、
そこは箱根山の溶岩が太平洋に流れ込んだところです。
江戸時代末につくられた「石工先祖碑」にもでできますが、
「天の物を生ずるや必ず其の人を待ちて世に顕るなり。
相の巌邑(いわむら)は嶮岸東南の海に沿い峻岳西北の函関(カンカン 箱根山の関所)に連なり樹林縫うが如し。ガン石間を為し一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。・・・」
「石工先祖碑」は、2015年1月16日ブログに紹介しました。
ここで「巌邑」と記されているのは、岩村のことです。
碑文にある通り、この地はほとんど平らな畑はありません。
猫の額のほども平地はありません。
ひおじいさんは、そこで何を家業としていたのか。
そこでのわずかな畑を、ひおじいさんは耕して暮らしていたんですね。
三、やがて、子どもたちが大きくなって、家業が建具屋にかわります。
建具屋の仕事は、その二男(当方のおじいちゃん)義方が始めたそうです。
小田原の方へ、小さい時から建具師の修行奉公にでて、やがて独立したというんです。
昭和15年に岩297に住居が移った時が、その独立した時ではなかったでしょうか。
四、義方とともに建具づくりも仕事場で、一緒に働いていたおじさんがいました。
前回に戸籍の上から「実の兄弟」としましたが、
たしかに戸籍の上では五男となっていますが、
じつは、義方が自分の兄(長男)の子ども(長男)を引き取って、一緒に働いていたとのこと。
貧しかったとしても、庶民の生きざまは、幸いなものがありました。
いじょうが、今回の探索の結果でした。
もはや、それ以上のことは、歴史の流れに消えてしまいました。
当方のルーツの探索も、これにて終了です。
最後に、これとは別に数年前にルーツとの出会いがあったことを紹介します。
2013年の夏に大学時代の知人たちと伊豆の旅をしました。
当方は、その案内役として、2012年秋にその下見をしたんですが。
その時、はじめて伊豆方面をドライブして回ったんです。
その時に、ルーツに関する発見がありました。
http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201210020000/
これも偶然の出会いでしたが、
今回で、当方のルーツについて、その全体が見えたことになります。
結論ですが、今あることは、ほんとうに奇跡的なものと感じてきます。
ひおじいさんの旅は、大変なものだったと思います。
そして、日々、一生懸命生きていくこと、
それがどこかで明るい明日に通じることを、どこからともなく感じさせられます。