|
カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクス「ヘーゲル弁証法批判」(その13) 何が問題で、ヒントはなにか ここでマルクスが検討の対象としているヘーゲルの『精神現象学』ですが。 哲学者の故・真下信一氏ですが、昭和の初めのころ京都での学生時代に、教授から聞いたそうです。
それと、今回から、この学習の主題に関連して、入手できた本や論文ですが紹介させていただきます。 今回から問題になるヘーゲル『精神現象学』の「絶対知」です。
一、そもそも、なにが問題なのか
私などが思うのに、この内容は、マルクスはヘーゲルの弁証法をどの様にとらえたのか、それをどの様に批判したのかですが。ようするに唯物弁証法です。 混迷する今の社会にあって、なかなかままならなく、混迷することがいろいろ目につく現代社会ですが。私などはその中を73年生きてきて、この社会にあっては、とくに基本的な姿勢が大切だと感じるようになってきているんですね。 しかし、それは、このヘーゲルやマルクスの著作をちょっと開くとわかるかと思いますが、そうそう簡単に理解することはできないんです。 私などは、そこに現代を生きる人たちにとって、生きていく上で役立つ基本があると思ってるんですが、しかし、なかなかそれを周りの人たちにうまく伝えれない、このもどかしさがあるんです。 それで、このブログ発信をしている次第です。 前回、マルクスがヘーゲル哲学の一番の業績として弁証法の発見にあると指摘したのを紹介しました。 しかし、ここでは、問題は限定されます。 今回、マルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」の全体を大まかに区分してみました。
以上が、前回まで学習してきた流れでした。 これからのことについては、私などはまだよく読めていませんから、あくまで仮説です。
「ところでヘーゲルの一面性と限界については、われわれはこれを『現象学』の結びの章(絶対的知)のところでくわしく示してみせるであろう。ちなみにこの章には現象学の要約された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係も、またこれら両者のおよび両者の相互関係にかんするヘーゲルの意識も含まれているのである」(P496 第15文節) これはマルクスの確固とした評言ですが、これはこれからの「本論」を検討した後によるものでして、だからこそくだせる私たちへのアドバイスです。
これが『精神現象学』の問題とされる箇所です。冒頭のたった1ページなんですが。マルクスはそのことから、そのことを問題にしているんです。集中力、意識性を示していますが、マルクスの学習の仕方もそこには見てとれると思います。
以上が、見通しです。 1、「経済学批判の方法を探るマルクス」(長久理嗣著 『経済』2022年2月号) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[本棚で見つけたこの一冊] カテゴリの最新記事
本論に入ってきました。「本論に入るにあっての見取り図」、特に序論の総括は、興味深いところです。
話は前後しますが、「序論」というと、一般的には、「本論」に対しての導入。当該論述の主題や目的を明らかにするもの。つまり、当該論述の「意義と限度」を確定し、論述の範囲を限定するものだと理解しています。しかし、これは、レポートレベルの話なのかもしれません。先のシリーズ、ヘーゲルの「歴史哲学講義」において、その「序論」は「藪から棒」の論述が、実は、本論で迷子にならないための「アドバイス」=地図の提供であった様に、今回のシリーズ、マルクスの「経済学哲学手稿」でも、見取り図の提供。これが本来の―新たな知見・新たな地平について論述する場合の―「序論」の役目なのかもしれません。 「序論」は、「本論」において検討された事柄は「結論」として総括され、更に、これを踏み台にして、より一般的=抽象的な形で、当該論述を鳥瞰させるものなのかもしれない。と考え始めています。これって、学研の深化=発展ではないでしょうか。初学の我々は、「見取り図」を渡され、論者に導かれながら各論的考察を進め、結論に至る。この時、先の「見取り図」は、ペラペラな紙片ではなしに、内実を伴った、現実をも映し出すパノラマとなるような気がします。加えて、この展開は、我々読者のみならず、論者にとっても(当然、我々とは深化の度合は異にしながらも)同様の深化=発展と言えるのではないかとも思います。 因みに、茶道の世界に『利休道歌』(『利休居士教諭百首詠』)というものがあります。そのうちの一つに、 稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかえるもとのその一 と、あります。難しいことではありますが、始めは、規矩を教えられ、その内容など解らないまま、ただただその形を習い、習い習い習って一歩一歩深化し、十まで進んだ人がもとのその一に戻った時、それは一段高い「一」でなければならないはずです。また、本当に習い習い習ったならば、それは必ずや一段高い「一」のはずです。さらに、また十へ習いを進めることだろうと思います。これを発展と言わずになんとしましょう。これを弁証法と言わずになんとしましょう。 (2024年04月11日 16時38分53秒)
渡政(わたまさ)さんへ
あまり、これまでそうしたアドバイスをしてくれた先輩がいなかったわけで、この序論ということの性格というか、問題に気がつかなかったんですが。 少なくとも、ヘーゲルとマルクスについては、序論を軽く聞き流してはならないということです。そこに大事な全体を理解するうえでのアドバイスがあるということです。 (2024年04月11日 23時07分31秒)
渡政(わたまさ)さんへ
確かにその文章表現は私なんかにも理解しにくいんですが。 その理解しにくいからこそ、さまざまな勝手な解釈が氾濫してます。だから、なおのこと分かりにくい。 私なんかは、『フォイエルバッハ論』を参考にしつつ、そのものの文章にあたるようにしています。 はっきりしているのは、この「ヘーゲル弁証法批判」の一文ですが、ここでヘーゲル弁証法をとらえつつ、その成果を評価するとともに、その「一面性と限界」を明らかにしようとしている。(それは、誰もそれまでできなかったわけで)。 この努力をキャッチしたいじゃないですか。 エンゲルスが遺稿集でこれを目にした以外は、レーニン死後の1932年までこの文章は、一般には知られていなかった。日本も治安維持法下ですから。 1945年以降、訳されたのは1960年代。ME全集では1975年ですから、われわれの大学卒業後だというわけです。その道の、専門家のいろいろな人が論究しているとは思いますが、私などが得心できるような紹介したものというのを、まだ見ていないんですね。 1970年に法政大学を体験したものとしては、このまま活字離れの世相にあって、その流れにながされたままにあっては、もったいないじゃないですか。宝の持ち腐れですね。どんなにつたなくても、これを紹介してやらなければ、どんなに部分的なものであっても、それを紹介したやらなければ、あとにつづき生きてる人は怠け者だとのそしりを免れないと、私などは思います。 (2024年04月12日 20時43分29秒) |