(2011年7月7日『ドイツ・イデオロギー』を読んでのつづき)
2、「フォイエルバッハは、人間を感性的対象としてだけ把握し、感性的活動として把握しない。理論の中にとどまり、人間たちを与えられた社会的関連の中で把握せず、彼らを現にあるものにした当面の生活諸条件の下で把握しない。人間というものといった抽象物にとどまったままだ。」「フォイエルバッハが唯物論者であるかぎり、歴史は彼のところにでてこない。歴史を考慮しようとするときは彼は唯物論者でない。」
3、「フォイエルバッハは、他者〔バァウアーやスティルナーたち〕とのように現存の事実についての正しい意識だけを提示しようとするが、真の共産主義者にとって重要なのは、この現存するものを覆すことである。」この点で「フォイエルバッハはあいかわらずわれわれの敵たちと同じ問題を分かち持っている」
以上です。
いずれも核心的な点だと思います。ただそれは、山に例えれば、頂上の最先端の問題です。
この3点だけで、フォイエルバッハを全面的に検討したことになるかというと、山というのはすそ野から頂上までの全体像がありますから、とてもその先端部分を批判したことだけで、その全体像を明らかにしたことにはなりません。
ただ、少なくとも、マルクスとエンゲルスが新たに確立した唯物論的歴史観の見地にたって、フォイエルバッハが画期的に進みだした唯物論ですが、その唯物論が中途半端なことをいろいろな角度から批判して、さらに唯物論に前進させようとしていること。
そうした努力の中から、新しい水準の唯物論を、新たな世界観・歴史観を切り開いたことを、この3つの批評から見てとれると思います。
三、マルクスとエンゲルスは多くの著作をのこしていますが、その中で唯物論的歴史観そのもの説いたものとしては、エンゲルスの著作『フォイエルバッハ論』(1888年)があります。エンゲルスが68歳の晩年近くなっての著作です。
エンゲルスは、その序文でいっていますが、この執筆にあたって、あらためて『ドイツ・イデォロギー』を、25歳のころに書いた著作を読み返したとのことです。そこでは、特にフォイエルバッハについて、飛ばしていてふれることの足りなかったことがらについて、この機会に補足をして、より全面的に、簡潔にまとめたというのが、『フォイエルバッハ論』だ、といっています。
私なりに思うのですが、『フォイエルバッハ論』で指摘されている点を念頭において、大部な『ドイツ・イデォロギー』を読み返してみること、それが大事なことだと感じています。そうすることで、結論として当然のようになっていることがらが、真理を探求していく過程の必然的な帰結として、確固としたまとめであり、定式だったことが見えてくると感じています。
テーマがテーマですから、一度読んだくらいでは分らないと思います。やはり折にふれて読み返すことが大事で、それが私なりに心がけていることでもあります。
まぁ、これが今回読んでの感想です。
(今回、2015年6月16日から9月25日の再挑戦でしたが、
「フォイエルバッハ」章の冒頭部分のみで、全体のごく一部でした)