庄内平野は、やはり日本の大米作地帯でした
鶴岡の旅 その1
山形県鶴岡市を、9月5日から7日に、学生時代の仲間と旅してきました。
私にとっては、日本海側を旅するのは、ほとんど初めてのことでした。
米作地帯、歴史と文化など、聞くこと見ること初めてのことだらけでした。
台風12号の影響が心配されましたが、
さいわい天気の崩れもなく旅することが出来ました。
そもそも鶴岡という街は、
江戸時代の庄内藩(14万石)の城下町、地域の中心地だったんですね。
いろいろ回ったんですが、
鶴岡公園の中ですが、庄内藩の藩校「到道館」があったそうです。
藤沢周平の小説にも出てきたと思いますが。
これは、その到道館を見学する時に、説明を受けているところです。
この様子が、全般を示してますが、
歴史に詳しい案内者の方がついてくれて、
訪ねた先々の名所で、その歴史を説明してれたんですね。
当方には、知らなかったことばかりで、
見たり聞いたり、ついついキョロキョロしていて、聞き逃してしまいましたが。
準備した主宰者の思い入れが、いろいろつたわってくる有意義な旅になりました。
私などは、庄内平野の地に入った途端から、
その土地柄がしめしてくれた景色そのものが圧巻でした。
遠くまで、これほど一面に水田が広がりる景色などというものを、
私などは、これまで、なかなか見たことがないものですから。
当方の生まれと生活圏では、神奈川県の真鶴などでは、
平地そのものがほとんど無いわけですから。いかに狭いところにくらしているか、です。
小田原の平野には、少しは水田がありますが、それでも、これほど広くはありまんから。
東京の近郊だって昔はあったはずですが、今は田畑はすっかり宅地に変わっちゃってますから。
米どころの庄内平野というものを、百聞は一見に如かずです。
今回、訪ねた時期が、ちょうど収穫の直前の時期で、
ずーっと一面に、稲穂が黄金色にそだって垂れさがっていました。
最初の収穫作業が、ちょあど始まりだしたところでした。
稲刈り機やコンバインが、稲刈り作業を始めだしたところでした。
これは、移動する途中のバスからの景色です。
私などのにとっては、「いまさらながら」の謎なんですが、
「これだけの穀倉地帯が、いつころ(時代)に、どの様な努力でつくられたのか。
このような整備された区画整理は、いつころととのえられたのか。
なによりも機械もなかった頃は、
これだけの水田の耕作、田植え、草取り、収穫を、農家の人たちは、どうしていたのか。
農地改革で1949年頃には、小作地が自作農化したはずで、一戸が3町歩までと制限されたはず。
今見ているこの広い水田と、米作りの農作業と、所有権の区割りなどはどうなっているのか。
1960年代以降、トラクター、稲刈り機(コンバイン)、田植え機などの機械化がすすみましたが、
高額の機械のはずです、その購入と使用は、個人なのか共同なのか、どうなっているのか。」
以上は、この景色を見たことで、自ずから湧いてくる疑問ですが。
こうした素朴な疑問が、研究者でもないのに、とりとめもなく湧いてきて・・・、
これらは、今後の探究の課題です。
これも移動の途中でしたが、
水田の中に大きな施設がありました。JAの施設の様ですが。
米作というものを知らない当方には、これが何のための施設かわかりません。
もしかして、収穫したお米を乾燥させて貯蔵しておく倉庫でしょうか。
同行の面々に後で聞いたんですが、分かりませんでした。
今回の旅で、庄内平野とそのお米というものが、都市にとって大事な役割が分かりました。
江戸時代から、庄内平野のお米が輸送が、運送・流通が、重要課題だったんですね。
藩校・到道館のなかで展示されていた一つの資料に目が留まりました。
〈年貢米は庄内藩の内の家臣への支給や諸必要をまかなって、
なおそれを越えた分の約5万俵だそうですが、
上方へ搬送されて、それが売却されたのだたそうです。
それが、江戸や大阪の都市住民の食料に当てられていたんですね。
寛文12年(1672)、幕府の天領米の制度改革があったそうで、海運も整備改革されたとのこと。
天領米(15万石)は、最上川を下って酒田港にあつめられた。
琵琶湖に経由で運ばれていたのが、海運の一本の航路にあらためられたとのこと。
酒田港から、5月初めに3900石の御用米は、日本海を南下して、
下関、瀬戸内、紀州沖、江戸へと、800里を船で輸送されて、
7月初めに江戸についたとのこと。西回りの海送だったとのこと。
酒田港は、江戸中期には、最上川の船も含めて、
春から秋まで、2500-3000隻に達するにぎわいだった〉
だいたい、こうしたことが案内解説に紹介されてました。
新潟-庄内-秋田、こうした地域が、昔も今も、日本の米作地帯の中心なんですね。
今回の、庄内平野の景色は、黄金の稲穂の垂れ下がる景色は、それを示してくれていました。
水田面積の広さ・イコール・お米の収穫高が、
経済的な社会を豊かにさせるための基礎的な力だったんですね。
そこへの態度に、またそれを基礎として文化というものが育てられたんですね。
もちろん時々にはいろいろな人がいたでしょうが、
米作りということが、身分社会の中でも、上からも下からも大切にされていた。
そして、その力を引き出し、豊かにした人が、それぞれの時代に尊敬されてきたんですね。
これは今でも変わりありません。長い歴史がしめしていることですね。
以上、鶴岡の旅(その1)でした。