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みかんの木を育てる-四季の変化

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2016年09月08日
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カテゴリ:チョットひと旅

庄内平野は、やはり日本の大米作地帯でした
          鶴岡の旅 その1

山形県鶴岡市を、9月5日から7日に、学生時代の仲間と旅してきました。
私にとっては、日本海側を旅するのは、ほとんど初めてのことでした。
米作地帯、歴史と文化など、聞くこと見ること初めてのことだらけでした。
台風12号の影響が心配されましたが、
さいわい天気の崩れもなく旅することが出来ました。

そもそも鶴岡という街は、
江戸時代の庄内藩(14万石)の城下町、地域の中心地だったんですね。

いろいろ回ったんですが、
鶴岡公園の中ですが、庄内藩の藩校「到道館」があったそうです。
藤沢周平の小説にも出てきたと思いますが。
これは、その到道館を見学する時に、説明を受けているところです。

写真: DSC_0017

この様子が、全般を示してますが、
歴史に詳しい案内者の方がついてくれて、
訪ねた先々の名所で、その歴史を説明してれたんですね。

当方には、知らなかったことばかりで、
見たり聞いたり、ついついキョロキョロしていて、聞き逃してしまいましたが。
準備した主宰者の思い入れが、いろいろつたわってくる有意義な旅になりました。


私などは、庄内平野の地に入った途端から、
その土地柄がしめしてくれた景色そのものが圧巻でした。

写真: DSC_0049

遠くまで、これほど一面に水田が広がりる景色などというものを、
私などは、これまで、なかなか見たことがないものですから。

当方の生まれと生活圏では、神奈川県の真鶴などでは、
平地そのものがほとんど無いわけですから。いかに狭いところにくらしているか、です。
小田原の平野には、少しは水田がありますが、それでも、これほど広くはありまんから。
東京の近郊だって昔はあったはずですが、今は田畑はすっかり宅地に変わっちゃってますから。
米どころの庄内平野というものを、百聞は一見に如かずです。

今回、訪ねた時期が、ちょうど収穫の直前の時期で、
ずーっと一面に、稲穂が黄金色にそだって垂れさがっていました。
最初の収穫作業が、ちょあど始まりだしたところでした。
稲刈り機やコンバインが、稲刈り作業を始めだしたところでした。

これは、移動する途中のバスからの景色です。

写真: DSC_0072

私などのにとっては、「いまさらながら」の謎なんですが、
「これだけの穀倉地帯が、いつころ(時代)に、どの様な努力でつくられたのか。
このような整備された区画整理は、いつころととのえられたのか。
なによりも機械もなかった頃は、
これだけの水田の耕作、田植え、草取り、収穫を、農家の人たちは、どうしていたのか。

農地改革で1949年頃には、小作地が自作農化したはずで、一戸が3町歩までと制限されたはず。
今見ているこの広い水田と、米作りの農作業と、所有権の区割りなどはどうなっているのか。
1960年代以降、トラクター、稲刈り機(コンバイン)、田植え機などの機械化がすすみましたが、
高額の機械のはずです、その購入と使用は、個人なのか共同なのか、どうなっているのか。」

以上は、この景色を見たことで、自ずから湧いてくる疑問ですが。
こうした素朴な疑問が、研究者でもないのに、とりとめもなく湧いてきて・・・、
これらは、今後の探究の課題です。

写真: DSC_0078

これも移動の途中でしたが、
水田の中に大きな施設がありました。JAの施設の様ですが。
米作というものを知らない当方には、これが何のための施設かわかりません。
もしかして、収穫したお米を乾燥させて貯蔵しておく倉庫でしょうか。
同行の面々に後で聞いたんですが、分かりませんでした。


今回の旅で、庄内平野とそのお米というものが、都市にとって大事な役割が分かりました。
江戸時代から、庄内平野のお米が輸送が、運送・流通が、重要課題だったんですね。
藩校・到道館のなかで展示されていた一つの資料に目が留まりました。

写真: DSC_0012

〈年貢米は庄内藩の内の家臣への支給や諸必要をまかなって、
なおそれを越えた分の約5万俵だそうですが、
上方へ搬送されて、それが売却されたのだたそうです。
それが、江戸や大阪の都市住民の食料に当てられていたんですね。

寛文12年(1672)、幕府の天領米の制度改革があったそうで、海運も整備改革されたとのこと。
天領米(15万石)は、最上川を下って酒田港にあつめられた。
琵琶湖に経由で運ばれていたのが、海運の一本の航路にあらためられたとのこと。

酒田港から、5月初めに3900石の御用米は、日本海を南下して、
下関、瀬戸内、紀州沖、江戸へと、800里を船で輸送されて、
7月初めに江戸についたとのこと。西回りの海送だったとのこと。

写真: DSC_0011

酒田港は、江戸中期には、最上川の船も含めて、
春から秋まで、2500-3000隻に達するにぎわいだった〉

だいたい、こうしたことが案内解説に紹介されてました。

新潟-庄内-秋田、こうした地域が、昔も今も、日本の米作地帯の中心なんですね。
今回の、庄内平野の景色は、黄金の稲穂の垂れ下がる景色は、それを示してくれていました。
水田面積の広さ・イコール・お米の収穫高が、
経済的な社会を豊かにさせるための基礎的な力だったんですね。
そこへの態度に、またそれを基礎として文化というものが育てられたんですね。

もちろん時々にはいろいろな人がいたでしょうが、
米作りということが、身分社会の中でも、上からも下からも大切にされていた。
そして、その力を引き出し、豊かにした人が、それぞれの時代に尊敬されてきたんですね。
これは今でも変わりありません。長い歴史がしめしていることですね。

以上、鶴岡の旅(その1)でした。






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Last updated  2016年09月08日 12時10分53秒
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