藤沢周平作品の背景を見れました その2
9月5日から7日、同窓生で山形県鶴岡市を旅してきました。
当方の目的は、米どころの庄内平野とともに、藤沢周平の記念館の見学もありました。
藤沢作品には、封建時代の荘内藩が背景にあることを感じさせられました。
街のあちこちに、時代の遺構が今に残されているんですね。
これがその藤沢周平(1927-1997)記念館です。
鶴岡行きが決まった時、主宰者から「せっかく鶴岡に行くんだから、藤沢作品を1作でも読んでおいたほうがよいのでは」との宿題がありました。
当方は、それまで藤沢周平は、名前しか知らず、作品はまったく読んでなかったんですが。
日時がせまってからの、かけこみの2,3冊でした。
それで、この旅で「どうして、藤沢周平作品を知ったのか? 魅力はなにか?」
新米の読者としては、この疑問を参加者たちにぶつけることになったんですが。
「広く話題になったのは、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』あたりからじゃないか」
「下積み生活で苦労している人たちに光をあてている。その姿勢に引かれるんじゃないか」
「先日、テレビドラマで藤沢周平とその家族を見た」などが返ってきました。
今回の旅で感じたんですが。
『蝉しぐれ』は、藤沢周平の代表的な作品の一つかとおもいます。
映像の力のもよるものでしょうか、しっかりした時代背景が作品に客観性を与えていたように思います。
この作品のテーマには、一つに三人の若者の友情がありました。
彼等が、剣道で道場に通い、塾で学問を学ぶという文武両道の姿が描かれていました。
今回、藩校の「致道館」を見て、それを納得しました。
9月6日には、荘内藩の藩校・「致道館」を見学しました。
到道館は、鶴岡公園の中にあるんですが、
そこはお城の正門から、歩いてほんのすぐのところなんですね。
これがその講堂です。
講堂ですが、小さな部屋なんですよ。
参加者の顔が、お互いに良く見えたはずです。
展示の中には、当時の藩校の学校制度が紹介されていました。
今の小学、中学、高校、大学に対応するかのように、しっかりした制度があったということです。
それぞれの段階での学習時間帯も決められていた。
大学段階では自主学習なんですね。
そこで学んだ中から優れた人が役人に起用されていったというんです。
その勉学の内容もわかります。
藩校で使われていた教本(教科書)が展示されてました。
この教本の版木まで残されているとのことです。
やはり孔子の『論語』に重要な位置付けがあったようです。
江戸の荻生徂徠(1666-1728)塾と交流があったとのことです。
ここには、質問に答えた徂徠の書簡も展示されてました。
徂徠の学び方というのは、
原典、もとの文章を読むことで、後世の注釈にとらわれずに、孔子本来を理解しようというのだそうです。
ここには荘内藩が全体として教育を重視していたこと。
それが地域社会にとって、一つの社会的な慣習になっていたんですね。
こうしてみると、封建社会の時代というのは、もちろん士農工商の身分制度の社会ですが、経済的には、米作りを土台に、年貢を得ることにより回っていく社会だったんですね。武士は藩という世界に、社会組織の中にあったこと。荘内藩でみると、当時の学問を重視していたこと。
私などにはわかりませんが、そこには独特の道議(モラル)があったことがうかがえます。これはこれで一つの課題なんですが。
少なくとも、社会的に上の立場にある人だからといって、何でも勝手に自分のしたいことをするというのは、この時代にあっても、邪道なことだったんですね。人の上に学問の理をおいていたんですね。自分勝手な都合で学問を解釈しようとしたり、不都合だからといって学んでいる学問を力で蹴飛ばしていくような無理を通せる社会ではなかったということですね。今を見る一つの鑑にもなりますね。
これは案内者の説明で聞いたのですが、西郷隆盛との関係です。
幕末の戊辰戦争では、親藩の庄内藩は、会津藩同様に徳川幕府側にいたそうです。官軍が迫ってくる中、すでに会津藩も落城していて、砲火が交わされる直前に、西郷隆盛が『もうこのへんでいいだろう』と戦を抑えたというのです。
口頭では、そこには70万両という賠償金を支払いもあったとのことですが。
本間家などからの負担もあったそうですが。
とにかく戦火により灰燼になることはなかったそうです。
それが、多くの文化的な資料が今に残されている要因と思われます。
そうしたことが全体として、藤沢周平の作品の背景にあったんですね。
それなりの歴史の事実の重さをもっていることを感じさせられました。
次の一枚は、丙申堂(へいじんどう)の庭をみているところです。
ここは、藤沢作品の撮影に使われた部屋であり、庭とのことでした。
『半生の記』にある言葉ですが、やはりここに基本があると見ます。
「胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さなければならないものだった」と。
こうした姿勢も、またその時代の課題において、
人びとの心を打つ要素になっているのではないかと思っています。