「うまずたゆまず」での山口二郎氏の反省談
新聞を片付けていて、気になって探していたコラムでしたが、それを見つけました。
少し前ですが、6月24日付『東京新聞』での山口氏のコラム「うまずたゆまず」でした。
日々、この暑さの中でドタバタしていると、「あれっ」と思った記事が、どこかへ旅に行っちゃうんですね。何週間か過ぎてしまうと、「まぁ、いいか」となっちゃうんですが。
このコラムも新聞の山の中に紛れちゃってたんですが、珍しくも片づけした中から、みつけました。
この6月24日コラムには前談があって、その前の6月17日のコラムでしたが、
山口氏は「(安倍首相の)自民党総裁選の参戦も確実視される中、ここは安倍首相にぜひ(日本と北朝鮮との国交正常化)難事業を成し遂げてもらいたい。」と、「皮肉ではなく、決意を期待したい」とまで述べていたんですね。
しかし、やることなすこと、憲政を否定する安倍首相に、まともな政治を「期待」することなんて出来ないじゃないですか。いくら課題が切実であっても、政治的な人格からしてまともなことからはずれるのに定番の人に、ほとんど期待はできない。むしろ、きびしく監視・監督の目で見ていくことが必要なのであってね、甘い「期待」など抱きようがないじゃないですか。
このコラムを読んで、そう感じていたんですが、
その一週間後に投稿されたのが、この6月24日付の反省コラムでした。
「けしからことを次々あげつらっても、どうせ高度プロフェッショナル制度もカジノも淡々と進むだろう。安倍首相はやすやすと自民党総裁三選を決めると思うと、批判の筆を執る気力が起こらない。ぼんやりしているうちに土曜日の午後になり、編集部からの督促の電話を受ける羽目になった。
政権批判の先鋒を任じてきた私がこの体たらくでは、まさに向こうの思うツボである。ここは同じことの繰り返しと言われても、おかしいことをおかしいと言わなければならない。」
これなら私なども納得です。
「人間、過ちを改めるに、はばかることなかれ」、です。
だいたい人間くたびれてくると、「今日のところはこれで、まぁ、いいか」などの心境もなります。私などは、この炎天下の中で、草刈りや野焼きをしていると、そうした心境になりますが。
しかしそれは体調からして一服することはありますが、課題自体は歴然としてあるわけですから。
だいたい、日本の戦後政治で、アメリカ従属の政治的病が指摘されてどのくらいの歳月がたちますか。その現象の側面は、日々年々新たな側面を示しています。おそらく、私などは小さくて知る由もありませんでしたが、1951年当時も、1960年当時も、当時の民主的良識人は、正義と科学の論陣をはったわけでしょうが、当時の政治的多数によってそれが否定されてしまったわけですし、おそらく心ある人たちは歯ぎしりしたと思うんですよ。
60年安保にしても、一時的には、テレビや新聞の無視により、国民の意識の焦点からは薄れることもあったでしょう。
しかし、それは今日の状況にはっきりと続いている。
とくに2015年9月19日からの戦争法廃止・立憲主義の回復の課題ですが、これは単に理論の上での問題だけではありません、国民の大衆行動がおきているわけですから。明らかに国民の自覚が、以前とは違っていると思います。日々の日常では捉えにくいんですが、明らかに違います。
その後も様々に課題が、紛々として問題になる中ですから、国民の底流の問題として、たとえ時々に問題の起伏はあっても、様々な形で燃え広がり続けているじゃないですか。そこに今という時代社会がもっている特徴がありますよね。くたびれているどころじゃないんです。
この問題には、その側面として戦後政治で問われ続けてきた、日本政治のアメリカ従属の政治の問題がありますよね。沖縄問題もしかり、日本の政治の自主性回復の問題と直結する関係にあります。日本の戦後政治の基本問題ですよね。これも、期間が長いからといって、それにより曖昧に出来ることではありません。
しかし、根強く長く続いてきた「対米従属」の病ですから、それを治すには国民的なレベルでも、それなりの意識的な努力が必要だということです。指摘するのはやさしいけれど、それを変えるには、相当の国民的な自覚が必要だということです。
私なども、この時期の雑草の繁茂に、草刈りでへとへとになっているわけですが。しかし、それだけでは、世の中も自分たちの暮らしも、いっこうに変わらないということです。
日々の仕事に加えて、さらにもう一歩の努力が必要だということです。
山口氏のいう「うまずたゆまず」ということです。