最近の読書観(その3)、ものたりなさ
台風15号が関東を通過しつつあり、昨夜から風雨が大荒れ、これが「野わき」なんですね。
今では懐かしい思い出ですが、私などは多摩の地域で社会科学の学習サークルをつくって、1989年11月から2001年10月まで、月に2回、7-9人の人たちで学習しました。ここでレーニンの『唯物論と経験批判論』やマルクスの『資本論』1巻・54回、2巻・33回、3巻・62回などを、理解度はともかくとして、学習・討議をしたんですね。それから20年近くがたっているんですが。
今は直接に討議しあう機会は無いんですが、フェイスブックをつかって討議したりしています。
最近の読書の一つなんですが、基礎学習としてマルクスの『ドイツ・イデオロギー』を学習しました。
エンゲルスの『フォイエルバッハ論』などを参考にしつつ、唯物弁証法や唯物史観とは何か、どうそれが引き出されたのか、という点です。
私は2008年9月からブログをはじめていたので、この学習については記録として残っているんですね。
最近の読書観ですが、これらとの関連で感じていることですが。
一つ、戦前の「唯物論研究会」からの気骨ある哲学者の一人ですが、森宏一さんという方がいました。
『唯物論と経験批判論』の訳者でもあるんですが。
1.戦前の「唯物論研究会」の活動について、1970年前後にいくつか座談会で語り合っているんですね。
当時、治安維持法により解散させられるまでにどの様な弾圧がおこなわれたのか、その中でも研究会メンバーがどのような活動をしたのか、今日にも引き継ぐべき宝がどうあるのか、語り合っていました。
哲学分野でも、まともに、率直に研究討議が出来るようになったのは1945年の敗戦以降なんですね。
それまで思想自体が弾圧されて、刑罰がかけられ監視がつきで、ばらばら状態で討議するなんてできなかったんですね。戦後も転向を強いられた人もいるわけですし、百花繚乱が始まった中でのことですから、かつての成果を集団でまとめることは容易ではなかったということ。それぞれの人の見解はあったとしても。1970年ころになって、ようやく戦前をふり返える座談会をもち、討議がかわされるといった状態だったということです。これって、戦前の弾圧が哲学の分野でも刻みつけた心の傷痕なんですね。
1970年当時は、私などは田舎から東京の学校に出てきた時で、見ること聞くことすべて新しいことばかりで、そんな複雑な事情があるなんてことは分からなかったんですね。前回の「歴史認識の空白」ですが、これもその一つの姿なんですね。
最近、森宏一氏の『哲学とは何か』(合同出版1976年刊)、『近代唯物論の歴史』(青木書店1977年刊)を読みました。私などは当初「ああ、わかっている」などと馬鹿にしてたんですが、これは、個人として哲学の世界観の世界史的な歩みをまとめようとする作業だということが見えてきました。また、フォイエルバッハの唯物論がどのような弱点を、歴史の制約をもっていたか、森氏のユニークな研究だったんです。
これって、戦後の民主主義的自由の条件の下で、戦前から果たそうとして果たせなかった、森氏自身の研究テーマだったんじゃないでしょうか。ロシアの革命的民主主義者たちの哲学についても研究していますね。これは森氏が私たちに残し送ってくれた研究成果なんですね。そうしたことが見えてきました。
もう一つ、「青年おいやすく、学成り難し」ですが。
私などはそんなところをウロチョロしていたら、70歳近くになってしまいました。『資本論』にしても、マルクスは1840年代に唯物史観を発見してから、具体的に経済学を研究しつづけて、『資本論』第一巻を残して1883年に亡くなっています。
私などは最近思うんですが、マルクスの歴史観、方法というのは、あくまで研究への手引きであって、その教条(文面)をいくら詮索したとしても、それが無駄とは言いませんよ。重箱の隅には、それとした新たな発見があることはあるとは思うんですが。しかし、その基礎理論をどのように理解し、私たちの現実の課題に応用するのか、「行動の指針」ということですが、これが大事だと思うんです。ちなみにレーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』(全集第3巻)を、ロシアでどのように具体的にすすみつつあるのかを材料を集めて、分析しています。
まぁ、こうした巨人の様には私などの凡人としてたはいきませんが、ただ少なくとも姿勢として、こうした理論の中心的課題を深めて、できうればそれ応用しようとする構えは大切だと思うんです。この目で見れば、そうした努力が日本と世界に活発に行われている。成果という点では、確かに玉石混交の面はあると思うんですが、そうした努力が行われている。森宏一氏の努力もその一つですが。
なるべくなら、こうした貴重な努力を、砂時計が終わるころになって気がつくのではなく、なるべくはやくに分かち合いたいですね。そうした歴史の胎動をみすえての成果の評価と、その人なりの努力が必要だと思っている次第です。
その点が、最近の読書観から感じさせられている、まだまだ努力が足りない点だし、もったいないと思う次第です。