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はなたちばな3385

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2024年10月11日
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​マルクス「ヘーゲル弁証法批判」28​

マルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」も、ついに最終段階です。
ゴチャゴチャとしたヘーゲルの弁証法ですが、マルクスはその「疎外のなかにある肯定的契機」をさぐっています。


「第一に人間の自己産出行為あるいは自己対象化行為の形式的かつ抽象的な把握」からです。
『経済学哲学手稿』の『国民文庫』(藤野訳)ではP234第64文節から、『ME全集』(真下訳)ではP507第56文節からです。ここでは『国民文庫』版でのページ数と文節をつかいます。




マルクスは以前のところで、P217第20文節ですが、

「『現象学』の最終章「絶対知」では、『現象学』の総括された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係と、それらについてのヘーゲルの意識をふくんでいる」と予告していました。

今回のところで、その「ヘーゲルの意識」ということが、分析されています。
私としては、この論文の核心的な箇所になっていると思います。

まずは、マルクスの叙述です。
なるべくそのものにそくして、読み取るように努めていますが、私なりに、多少、意訳をしています。
それは、中身をなるべく正確に読み取ろうと努力しているためのことで、勝手な解釈を意図するものではありません。
このヘーゲルを検討する26歳のマルクスにおつきあいください。

P234第64文節 ヘーゲルは、第一に人間の自己産出行為、あるいは自己対象化行為について、その形式的かつ抽象的な把握をしている。そのことの意味をとらえることが肝心だと。

第65文節 まずヘーゲルにとって外化(疎外)された対象、人間の疎外された本質的現実は、意識ということであり、疎外の思想であること。その疎外の抽象的で無内容で非現実的な表現が「否定」である。
したがって、その外化の止揚も、無内容な抽象の、その抽象的な内容の止揚ということの表現としての「否定の否定」でしかない。それゆえ、自己外化の活動は、その内容ある、生きた、感性的な、具体的な自己対象化の運動は、それのたんなる抽象(捨象)である「絶対的否定性」となる。

この抽象が、そうしたものとして固定されて、一つの自立的な運動として、その生きた活動の内容が、思考(思惟)として考えられているのである。

このいわゆる否定性は、あの現実的な、生きた行為の抽象的な無内容な形式の表現であるから、それゆえその内容も、たんに一つの形式的な、いっさいの内容が度外し(捨象)によって生み出された内容でしかありえない。したがって、それらはどのような内容にも属するような、普遍的な、抽象的な、あらゆる対象に対しても当てはまるような、抽象の諸形式、思考形式であり、現実的な精神からも現実的な自然からも引き離された思惟形式である論理学的諸カテゴリーとして存在するのである。

(否定と、否定の否定ということは、ヘーゲルの洞察によれば、それは現実の運動の、疎外された抽象的な形での表現であると。論理学の諸カテゴリーは、その運動の抽象的な思考形式による表現であると)

P235第66文節 ヘーゲルがその思弁的論理学でなしとげた積極的なものは何か。
規定された諸概念というのは、自然と精神に対してそれの自立的な普遍的な固定した思考(思惟)諸形式であり、それは人間的本質の普遍的な疎外の、したがってまた人間的思考(思惟)の疎外ということの、必然的な成果であること。ヘーゲルは『論理学』において、それらの抽象(捨象)の過程を、その諸契機においてしめしたこと、そしてまとめあげたこと。例えば、有の止揚は本質である、本質の止揚は概念である・・・、絶対的理念である、と。

「では絶対的理念はどうか?」

もし再びはじめから抽象行為全体を経過し直すことを求めずに、諸抽象の一つの総体として自分の抽象をさらに抽象するといったことに満足しないならば、そうした自分は自分自身を止揚する。
(どういうことか)

自分自身を抽象(捨象)したものとして把握する抽象は、自分自身を無と知る。
(どういうことか)

それは自分自身の抽象的存在を放棄しなければならないのであって、こうしてそれはまさしくそれの反対のものである一つの実在のもとに、自然のもとに到達する。

そういうわけで、全論理学は、抽象的思考がそれ自体だけでは無であること。絶対的理念がそれ自身だけでは無であること。自然との関係においてはじめて何ものかであることになるとの証明である。


(このことは、抽象的な言葉が、それが抽象的には真理であったとしても、しかしそれをいくらふりまわしても無意味であり、無力だということ。抽象的な事柄にとどまっていては無力だということ。その一般的な真理は、具体的な事柄のなかで、その抽象的(一般的)な運動の生きた事柄が、具体的な姿(形)において論証されてこそ、人びとのなかにその正しさと力が示されるということ。

しかしこれがヘーゲルの抽象的な言い方での「意識」であり、彼の自身の悩みであり、告白していたことでした。マルクスは、それを見抜いたんですね。

このマルクスの洞察ですが、そのことの論証は、ヘーゲルの『エンチクロペディー』「小論理学」の最終章の第244節にあります)

P235第67文節 絶対的理念、抽象的な理念は、「それ自身との一体性からみれば直観である」(『エンチクロペディー』「小論理学」の最終章の第244節)。
それは「それ自身の絶対的真理のなかでこう決意する。すなわち、それの特殊性の契機、あるいは最初の規定と他在の契機、直接的理念を、おのれの反照として、おのれの自然として、自由におのれから立ち去らせよう、と」。


(なんじゃ? これは、ですが。

以下は、マルクスのこのヘーゲルの心境に対する心理分析です)


この全体の奇異な挙動をする理念は、ヘーゲル主義者たちにとってとてつもない頭痛の種となったが。
この全理念はまったくの抽象、すなわち抽象的思想家よりほかの何ものでもなく、この抽象が経験によって知恵がつき、おのれの真理に関して啓蒙されて、まちがった抽象のなかでだけれど、いろいろな諸条件の下でこう決断するのである。

すなわち、おのれをすてて、おのれの他在であるところの特殊な、規定されたものを、おのれ自身のもとにあること、おのれが無であること。おのれの普遍性とおのれの非規定性にとってかわらせ、おのれがただ捨象(抽象)、思想物としてのみおのれのうちに隠しておいた自然を、自由におのれの外に出させること―つまり捨象(抽象)をやめて、おのれからは自由であるところの自然をいちどとくとながめてみよう―を決意しているかたちにほかならない。
そのまま直接に直観となる抽象的理念は、おのれをすてて直観になることを決意する抽象的思惟以外の何ものでもない。論理学の自然哲学へのこの移行はすべて、捨象(抽象)から直観への移行にほかならず、そしてこの移行をやることは抽象的思想家にとってはまことに難事なのであって、だからあんなにも奇怪な叙述がなされるわけである。哲学者を抽象的思惟から直観のなかへさそいこむ神秘的感情は倦怠感であり、なんらかの内容へのあこがれである。

以上です。

最後に、ひと言、私などは思うんですが。
日本は、下からの民主主義革命をへていません。戦前の上からあたえられた憲法とか、世界とアメリカが主導した憲法とか、自らの内面の力がつくりだしたものではありません。

このため「そんたく」とか「思いやる」とかが大きくて、個々人の心のなかでのつぶやきにとどまるきらいがあるとおもうんです。「万機公論にけすべし」は、まだ板についてないようにおもうし、私など庶民にとって、まだあまり慣れてないんじゃないでしょうか。

もちろん、憲法の改悪と改正とは、はっきりと区別する見識が必要です。まずはその中身の正確な理解が必要です。邪まな改悪内容ともたたかわずに、自他ともに曖昧にした「論憲」などというのは、歴史科学と万民の良識に対して、その成果にたいして、それを愚弄する態度だということです。

この問題は、ここでヘーゲルが提起していること、その中にある積極性としてマルクスが批判している点ですが、それらが核心において、基本において、重なっていると思います。

ここで問題とされていることは、日本の今のことにかさなることがらが論じられていると思います。






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Last updated  2024年10月11日 17時41分23秒
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