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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」28 マルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」も、ついに最終段階です。
「『現象学』の最終章「絶対知」では、『現象学』の総括された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係と、それらについてのヘーゲルの意識をふくんでいる」と予告していました。 今回のところで、その「ヘーゲルの意識」ということが、分析されています。 第65文節 まずヘーゲルにとって外化(疎外)された対象、人間の疎外された本質的現実は、意識ということであり、疎外の思想であること。その疎外の抽象的で無内容で非現実的な表現が「否定」である。 この抽象が、そうしたものとして固定されて、一つの自立的な運動として、その生きた活動の内容が、思考(思惟)として考えられているのである。 このいわゆる否定性は、あの現実的な、生きた行為の抽象的な無内容な形式の表現であるから、それゆえその内容も、たんに一つの形式的な、いっさいの内容が度外し(捨象)によって生み出された内容でしかありえない。したがって、それらはどのような内容にも属するような、普遍的な、抽象的な、あらゆる対象に対しても当てはまるような、抽象の諸形式、思考形式であり、現実的な精神からも現実的な自然からも引き離された思惟形式である論理学的諸カテゴリーとして存在するのである。 (否定と、否定の否定ということは、ヘーゲルの洞察によれば、それは現実の運動の、疎外された抽象的な形での表現であると。論理学の諸カテゴリーは、その運動の抽象的な思考形式による表現であると) 「では絶対的理念はどうか?」 自分自身を抽象(捨象)したものとして把握する抽象は、自分自身を無と知る。 それは自分自身の抽象的存在を放棄しなければならないのであって、こうしてそれはまさしくそれの反対のものである一つの実在のもとに、自然のもとに到達する。 そういうわけで、全論理学は、抽象的思考がそれ自体だけでは無であること。絶対的理念がそれ自身だけでは無であること。自然との関係においてはじめて何ものかであることになるとの証明である。
しかしこれがヘーゲルの抽象的な言い方での「意識」であり、彼の自身の悩みであり、告白していたことでした。マルクスは、それを見抜いたんですね。 このマルクスの洞察ですが、そのことの論証は、ヘーゲルの『エンチクロペディー』「小論理学」の最終章の第244節にあります)
以下は、マルクスのこのヘーゲルの心境に対する心理分析です)
すなわち、おのれをすてて、おのれの他在であるところの特殊な、規定されたものを、おのれ自身のもとにあること、おのれが無であること。おのれの普遍性とおのれの非規定性にとってかわらせ、おのれがただ捨象(抽象)、思想物としてのみおのれのうちに隠しておいた自然を、自由におのれの外に出させること―つまり捨象(抽象)をやめて、おのれからは自由であるところの自然をいちどとくとながめてみよう―を決意しているかたちにほかならない。 このため「そんたく」とか「思いやる」とかが大きくて、個々人の心のなかでのつぶやきにとどまるきらいがあるとおもうんです。「万機公論にけすべし」は、まだ板についてないようにおもうし、私など庶民にとって、まだあまり慣れてないんじゃないでしょうか。 もちろん、憲法の改悪と改正とは、はっきりと区別する見識が必要です。まずはその中身の正確な理解が必要です。邪まな改悪内容ともたたかわずに、自他ともに曖昧にした「論憲」などというのは、歴史科学と万民の良識に対して、その成果にたいして、それを愚弄する態度だということです。 この問題は、ここでヘーゲルが提起していること、その中にある積極性としてマルクスが批判している点ですが、それらが核心において、基本において、重なっていると思います。 ここで問題とされていることは、日本の今のことにかさなることがらが論じられていると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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