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みかんの木を育てる-四季の変化

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2021年12月04日
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​『経済学哲学手稿』5 ヘーゲル弁証法の成果と課題​

マルクス『1844年の経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」を学習しています。
マルクスがヘーゲル弁証法にたいしてどの様に対処したのか、新たな世界観-唯物弁証法をつくりだしのか、それを学ぼうとしています。
この『経済学哲学手稿』は、それを記録したもとおもっています。





一、最初に、一週間前の11月27日に、「弁証法」ということが注目される事態がありました。
共産党の選挙総括でのことですが、志位委員長は報告で「この総選挙はどんな選挙だったのか-゛政治対決の弁証法゛の角度からとらえる」と、また28日の結語では「弁証法について-総選挙の結果を『変化と発展』『全体の関連』の中でとらえる」として、「これが私たちが世界をとらえるさいに根本においている方法であり、世界観であります」と述べていました。
 社会の現象を弁証法の発現としてとらえる見方ですが、かつて同じように政治情勢の中で共産党の役割が明確であり出番のはずなのに、国政選挙では二連敗してしまった経験がありました。1978年6月5日全国県・地区委員長会議で宮本氏は「どうしても前進を勝ちとるために」とのあいさつをして、その中で「『階級闘争の弁証法』として、共産党の革新性が、いや応うなしに浮きぼりになっている、このことはわが党の方針と闘争を全体的にみれば明らかであります」(『党建設の基本方向』(新日本出版社下67))。今日とは条件は違いますが、政治史は似たような現象を経てきているんですね。


とにかく、昨日も今日も、社会現象にも客観的に弁証法がはたらいており、そこに活動する人としては弁証法の見方でとらえることが、それに対処する上で大切になっている、との指摘です。

「弁証法」とは、ぽつんと突然に飛び出してきた言葉ではないし、それは合言葉のように扱われるのではなく、ことがらを理論としてしっかりと学ばなければならないと思っています。
たまたまですが、私などはこの間、ヘーゲルの『大論理学』を学習してきたことから、この総選挙の経過と結果というものが、社会現象の領域で弁証法というものを理解するうえで、生きたいろいろな材料が提供されてくるとおもうので、注目しているところなんですね。

二、それはともかくとして、本題の『経済学哲学手稿』学習ですが、前回の続きです。

フォイエルバッハが、ヘーゲルの死後(1831年)に、唯ひとりヘーゲル哲学に批判的な対処をしようとした人だった。ほかの人たちは口真似をしているだけで、批判的に対処する問題意識をもたなかったと。フォイエルバッハだけは唯物論に移行して、その角度からヘーゲルを批判していた。マルクスも、前々回見たように、この唯物論へ移行した立場からのヘーゲル批判を積極的なものとして大いに評価しているんです。この点では二人の基本的な方向は同じなんです。ところが、それから先が違ってくるんですね。

同じような方向性でありながら、片やヘーゲルを唯物論では批判しながら、批判をし切れなかったフォイエルバッハの立場と、片やマルクスのヘーゲル哲学と弁証法を批判してゆく立場とでは、どこのところに違いがあったのか。

このヘーゲル弁証法に対する対処の仕方が、唯物論的な弁証法を明確に把握し提起できたか、その新たな世界観をひらくにいたるかどうかの違いとなった問題のところなんですね。
マルクスが、このヘーゲル弁証法をどの様に検討したか、これがここでの中心問題なんですね。

マルクスは、各論の個別的検討に入る前に、あらかじめ3点を総論的に述べています。

一つ、ヘーゲル哲学を全体として見た場合、「ヘーゲルにおける二重の誤り」ということ。
これが『国民文庫』のP211から216で、前回に見た通りです。

二つ目ですが、ヘーゲル哲学の積極的な成果について述べてます。(P216)。
「ヘーゲル現象学と、その終極成果-運動させ産出する原理としての否定の弁証法」
その中身は、第一にヘーゲルが人間の産出を過程としてとらえたこと、労働の本質をとらえたということ。第二は一個人がとる人間の類的な存在に対する関係について。私が思うのに、これらはヘーゲルが『大論理学』の第三巻のところで語っていたかと思うんですが。
とにかく、ヘーゲル弁証法の積極的成果について、マルクスは評価しているんです。「疎外の形式においてのみ可能だったけど」との注意をそえてはいますけど、評価しているんです。

最後の三っ目ですが、「こんどはヘーゲルの一面性と限界を、現象学の終章「絶対知」についてみてみようと。


この三点は、マルクスが前進させた新たな世界観-唯物弁証法-の要素になっているものですね。フォイエルバッハもふくめて、他の哲学者の誰しもはそこまで進むことが出来なかった事柄ですね。

よく「ヘーゲルの逆立ちを正した」といわれます。
問題の本質をひと言でいっているわけですが。その本質は大切でなことですが、ではそのその本質の具体的な検討過程は、批判過程はどうであったのか。
マルクスがここでの三っつ目のテーマですが、『精神現象学』の最終章「絶対知」を検討することですが。(『国民文庫』版では、P217からはじまります)
そこで主題にしていることは、この問題なんですね。
どの様にしてヘーゲルの逆立ちした考え方を正したのか、唯物弁証法を発見し、理論としてつくりだしたのか、この問題だとおもうんですね。

はてさて、本当にそうなのか。そんな問題を主題とする文章がここにあるのか。
これから調べてみようと思います。

しかし、まぁ、今回はここまでとさせていただきます。
これから、みかんの収穫に行かなければなりませんから、今回はここまでとしておきます。






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Last updated  2021年12月04日 15時01分39秒
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