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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
ヘーゲル『法の哲学』6 君主権・統治論の感想 福田静夫先生を講師とするヘーゲル『法の哲学』講座に参加しています。 私などは、以前にマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』(全集第一巻)に挑戦したことがあるんです。 だから、まんざらことはじめての学習ではないんですが。
二、『法の哲学』は1821年刊行ですから、200年前のものです。
四、このことは、今日、ロシアや中国の専制的な国家を見せつけられると、200年前のヘーゲルの主張ですが、そこにある民主的な力点が、今日的にも古くないなぁと感じます。いや新鮮な論点として感じさせられます。 五、とくに日本の場合、戦前であれば美濃部達吉氏の天皇機関説ですが、天皇(君主権)は議会で審議したことを執行する。法治主義による憲法論だったわけで、それが大正デモクラシーの時点では、主流の見解だったわけで。それが15年戦争に入っていく中で、国賊・不敬の議論と糾弾・弾圧されるように変わっていった。この天皇機関説とヘーゲルの憲法論とは重なっていると思うんですよ。日本はプロシアに学んだんだと思うんですよ。ところが、神がかり的な非科学的な憲法論に変えられていった。治安維持法の思想弾圧をもって。これが戦前の歴史であり、戦後の無謀な戦争にたいする痛恨の反省じゃないですか。 六、戦後の今日をみると、日本国憲法のもとにある私たち国民ですが、戦後はこの平和・民主主義の憲法に対して、戦前を反省しない政治家が、系統的に解釈改憲が追及されてきてるじゃないですか。 ヘーゲルやマルクスというのは、民主的な時代精神、合理的な科学的精神を、しっかりと探究する人たちでしたから、もしも今日生きていたら、この反動的なヌエ的な流れにたいしては、果敢に批判しただろうと思うんですよ。時代の精神というのはどういうものかと論じたと思うんですよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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毎回楽しみに拝読しています。
筆が早いですね。いつもながら感服です。最近、頓に感じることがあります。「理解はできていると思うのですが、直ぐ、忘れる。」ということです。本を読んで、栞を挟んだ昨日の内容が、俄に思い出せません。知見の拡充は、もう、無理なのかな? (2022年05月22日 08時20分29秒)
渡政(わたまさ)さんへ
状況は似たり寄ったりで、チョット前に後で当たるからとわきに片付けた本が、いざあたろうとすると、どこに置いたのかわからない。何回かさがすんだけど出て来ない。まぁ、捨てたわけじゃないから、そのうちまた出会うんじゃないかと。そんなことがいくつも出てくるんですね。 それと、最近『経済学』をあらためて学習しようと思ってます。ヘーゲル『法哲学』と並行してですが。 これまでの私などの経済学学習は、剰余価値論、搾取の仕組みくらいしか、繰り返しては学習してないように感じてます。基礎理論と綱領問題くらいしかあたれてない。『資本論』にしても、これまで私自身としては、経済評論をよむようにサラっと趣旨をつかむくらいでしか読んでこなかったんじゃないかと思ってます。諸々の忙しさからその程度で足踏みしてきたんじゃないかと思います。 だいたい日銀を子会社としてしか見てない政治家が、国策の根幹を牛耳っているわけですから、みかん農業にしてもほったらかしですから。諸般科学的な知見というのは蹴飛ばされつづけているのが今の状況ですから。また9条改憲への政界での合唱の幅が広がってますから、国民とのギャップも大きくなってる時ですから。 あらためて大海へ乗り出す一つの小舟といったところで、対象は広大で多岐なんですが。それはこれまでのやってきたことを再点検していくとの面もありますが。国民要求の基盤にたった憲法論・経済論を、あらためて探って明確にする必要があると思っています。 ようするに、私流に自分の置かれている条件下で、唯物史観の探究と、そこから自己の課題と理論を探るということです。 (2022年05月22日 09時38分27秒)
はなたちばな3385さんへ
慰めの言葉、ありがとうございます。自分の位置を見失わないこと、その為の努力は必要でしょう。正規労働者、非正規雇用者、派遣、更に、最近はフリーランスというような、労働者をバラバラにし、労働者であることすら気づかせない状況。組合の右傾化、反共宣伝の強化。景気動向に見向きもしない教条的、硬直した金融政策。目を転じてば、戦前の満州侵略ばりの蛮行を一時期にせよ労働者と被抑圧民族の解放を、と唱えていた国が行う状況を見なければならない世界。 一見。自由な、又、情報豊富な社会にあるように見えて、ちょっと気を抜くと「右向け右」の流れに乗せられてしまいます。注意!注意! (2022年05月22日 23時05分48秒)
渡政(わたまさ)さんへ
まったくその通りですね。 戦前の時代について、何んでバカな戦争なんかに走ったのか?これまでは若気の至りで、疑問視するだけだったんですが。最近では1930年頃の状況がどうだったか、身近かに感じられるようになりました。 それと同時にちがいはどこにあるか。あの69年からの法政時代にどんな暴力にも頭を下げずに自治権を回復しようとしたこと、そうした人たちがいたこと、それは憲法の精神のための大きな流れの中での苦闘でもあったんですね。当時そんなことは全く意識することなかったんですが、そうした客観性、時代社会の流れの中での一つだったんですね。 どんなにおかしな事態が、バカな連中が騒ごうとも、非合理的な暴力性が横行しようとも、理性はねじ伏せれないんですね。そこが戦前と戦後の違いで、戦前の大変な苦闘を感じるようになったものは、現代の苦しみ何たへのカッパですね。 それにしても、あの法政の中でもがき苦しんだ事柄というのは、課題というのは、真の民主主義の実現であり、それはいまや全国的な国民レベルの問題として問われているということです。面白い時代ですね。 (2022年05月23日 06時12分59秒) |