唯物論にもいろいろある(ヘーゲル弁証法、その8)
どういう偶然か、放置されていた中江兆民の『一年有半』を読みました。
それには『続一年有半』があって、兆民は1901(明治34)年に亡くなるわけですが、12月13日にガンで亡くなりますが、その最期に哲学を語りました。
それを今回、その『一年有半』の延長として読んだわけです。
中央公論 世界の名著36(昭和59)『中江兆民』でですが。
『続一年有半』の一節です。
「精神とは本体ではない。本体より発する作用である」(P419)
あらためて認識を新たにするんですが、
中江兆民という人は、唯物論者としての自覚をもって亡くなったんですね。
『続一年有半』というのは、兆民がその最後の最後に語たり残したった哲学の書なんです。
唯物論を明確に意識していた人というのは、さらにそれを表明した人というのは、日本の思想家の中では
少ないんじゃないですか。
そのことは、今回の私などの主題とどの様に関係するかの問題ですが。
一口に唯物論といっても、唯物論の基本的立場を確認するにしても、その唯物論はいろいろな形あるということです。
この基本的な立場・この基礎(一般性)においては共通であるにしても、しかしそこにはさまざまな形態があるということです。古代ギリシャにもいますし、18世紀のフランス唯物論の形態もありますし、また近代日本の中江兆民の形態もまたその一つだということです。
そしてドイツの観念論のうっそうとした、脈々とした観念論の大勢的な伝統から、一つの画期的な前進・転換をしたフォイエルバッハがでてきますし、その唯物論の形態もまたあるわけです。
では、そもそも唯物論とはなにか?この基本的な大問題ですが。
それを近年において唯物論を探ったのは、レーニンの『唯物論と経験批判論』です。
1908年で、「レーニン全集」の第14巻、473ページのおそるべき追及であり、大作です。
目まぐるしく忙しい、スマートホン時代で、活字離れの現代人でもあります。
その中で、はたして何人の人がこれを読んでるでしょうか。
ないし読む努力をしたでしょうか。
それはともかくとして、さらに、その上手を行く元ともなる先人がいます。
エンゲルスです。
そのエンゲルス『フォイエルバッハ論』(1888年)の一節からです。
「唯物論の立場とは、現実の世界-自然および歴史-を、どんな先入観的な気まぐれもなしにそれら自然および歴史に近づく者のだれにでもあらわれるままの姿で、とらえようという決心がなされたのであり、なんらの空想的な関連においてではなく、それ自体の関連においてとらえられる事実と一致しないところの、どのような観念論的な気まぐれをも、容赦することなく犠牲にしようという決心がなされたのである」(森宏一訳 新日本文庫『フォイエルバッハ論』1975年刊行)
これは基本的な立場であり、基本的な姿勢ですね。
エンゲルスがここで指摘している唯物論一般の基本的な立場ですが。
この唯物論一般性についての指摘はエンゲルスの大事な功績だと思います。裏返えせば、すでに述べたように、その唯物論の具体的な形態には、同じ唯物論であっても色々さまざまにあるというわけです。
では、目下の主題ですが、
『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル哲学批判」ですが。
この間に問題としていることですが、
今、学習しようとしている唯物論ですが、それはいったいどのような特性があるのか、ないしどの様な形の唯物論なのか。
このことが『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法・哲学一般の批判」の中心課題であり、マルクスの問題としていたところだと思うんです。
ひと言でいえば「弁証法的唯物論」ですね。
しかしそれだけでは、たんなる言葉でしかなくて、中身があいまいなんです。
今日の一般的に「弁証法的唯物論」をとりまく状況ですが、一方では当り前な常識的なこととして、子どもでもわかるイロハのように扱われているきらいがあります。他方では、それは特定の党派の偏った考え方だとして、レッテルはり的な、はなから門前払い的な扱いにする人もいます。
ソ連崩壊には、この哲学的混迷も関係していると、私などは感じています。
ペレストロイカの理論家・ヤコブレフの『マルクス主義の崩壊』(サイマル出版会 1992年)などは、その混迷する姿でもあります。
現代は、そうした狭間の中にあるわけです。だからこそしっかりした哲学的認識の堅持が求められてるわけですが。
そうした中で、しかしさきのエンゲルスの唯物論というものの規定ですが、こんな形で唯物論ということを明確に表明しているのはエンゲルスくらいじゃないでしょうか。これはものごとに対する姿勢として、当たり前のことですが、それが唯物論の基本姿勢をわかりやすく述べたものですね。このように規定されれば、だれも文句をつけようがないじゃないですか。言わすもがなですが、普段多くの人が意識しているかどうかは別にして、そうしているじゃないですか。
色眼鏡をかけてではなく、ものごとをありのままにみる、これを基本的な立場として堅持する決意こそが唯物論者の立場なんだといってるんですが。これはたぐいまれな指摘ですね。しかし、なんとも当たり前のことじゃないですか。それこそが唯物論の基本的な立場だというんですね。
しかし、おそらく多くの人にとって、この当り前な姿勢こそが唯物論の基本姿勢なんだとは理解してないと思います。特定な変わり者で、変なかたくななかたまった姿勢に固執する人とのように唯物論をとらえていると思います。そこには、唯物論に対する説明の仕方が悪いのか、それともそのようには受けとめたくないとの、かたくなな見地がよこたわっているのか、その点が現代の問題なところですが。
それはともかくとして、目下の場合ですが。
唯物論という、この当たり前の基本姿勢ですが、このことが、どうやって明確な意識としてつくられたのか、獲得されたのか、確認されたのか。この弁証法的唯物論が、その認識がどの様に作り出されたのか、この問題が問われてきます。
私などが思うのに、こうした探究をしていた時こそが、『経済学哲学手稿』を書いていたころのマルクスだったんじゃないかと。じっさいにもその文章はややこしい論文なんです。何しろ相手にしているのが、ヘーゲルやフォイエルバッハですから。だけど、実際にその中で問題としていたことというのは、こうしたことを課題としていたんじゃないか。それをエンゲルスが、マルクスの死後にあらためて、わかりやすく紹介してくれてた、それが『フォイエルバッハ論』だと私などは感じている次第です。
そのもととなる1840年代のマルクスの作品から、一点紹介します。
『経済学哲学手稿』はパリ時代ですが、その前の『ライン新聞』の時ですが。
マルクスは『ライン新聞』に「モーゼル通信員の弁護」との小論を書きました。
その1843年1月17日付 第17号 の箇所ですが。
「国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見逃して、すべてを行為する諸個人の意志から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している諸関係というものがある。最初からこの客観的な立場に立つならば善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提するのではなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに、客観的諸関係が作用しているのが見えるだろう。ある事物が諸関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるを得なかったか、またその必然性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう」(P208)
『ライン新聞』の編集し、その記事を書いている時点で、客観的な諸関係がその人の意識を規定することを、当時の経験からして認識したんですね。
このことは、意識が存在に「関係する」というのは洞察ですが、意識が客観的な関係(存在)に「規定される」となると唯物論的な立場となりますね。ちょっとした言葉のちがいですが、大きな問題ですね。意識と存在関係との関連との認識から、意識が存在に規定されるとの根源性の問題へと、探究を進めているわけです。ここに唯物論の問題があるじゃないですか。
(今、国会を見ていると、
政倫審で裏金づくりの仕組みについて、そのやっていたこと(関係)を当の自民党議員たちが、どう意識していたかが問われています。やっていたのに知らないなんてことは、ウソですが。そのことをただすのは当然なんですが。
同時に、見ておかなければならないのは、諸関係の中ではその担い手となっていたこと、その客観的な諸関係(意識とは別に、実際の関係がどうなっていたか)、こそが問われているわけで、「わたしゃ、あったけど知りませんでした」なんてことで済ますことはできない。その客観的な存在(関係)がどうであったかを、その意思とは区別しても明確にすることは、関係者であればなおのこともとめられる責任ですね。ところが言葉たくみにしらを切る、言い逃れようとする。責任を他に送ろうとする。その担い手(やっていたことの)となっていたことを、そのことをしっかり反省するかどうかがとわれてますが。これは意識と客観的な諸関係との関係ですね。ここでマルクスが問題としていることと同じ問題ですね。
ようするに、関係と意思のどこに問題があるのか、この問題点を明らかにする上で、きわめて卑近な基本的視点だということです。)
まぁ、それはともかくとして、
『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法・哲学一般の批判」ですが、本題に入ります。
その冒頭部分にあるのは「フォイエルバッハにいて」の論述です。
ようするにマルクスの『フォイエルバッハ論』なんです。
ヘーゲル学徒としてフォイエルバッハがたどりついた唯物論は、異端的な立場であり、変わり者だったんです。しかし、どんなに変り者でも、真面目に検討すればそれが真実でした。それは、みなが夢のようなことを論じていた中で、唯一のしらふの主張のようだった、と。その関係と、そうした方向を、その基本を断固として評価し、すすんだのが、マルクスの『経済学哲学手稿』だったんですね。
しかしそれは、若干24-5歳の、フランスにいわば自由を求めて亡命した、一人の青年の思想なんです。藻くずのようになっても当たり前ですが、それは出版する契約にまでいっていたんです。しかしプロイセン政府のさしがねで「24時間以内にフランスからでてゆけ」とのフランス政府から追放令にあったわけで、それこそドタバタ状態でして、やむなくそれは草稿としてお蔵入りせざるを得なかったんですね。
あらためてその草稿が日の目を見たのは、40年を過ぎた1888年のエンゲルスの『フォイエルバッハ論』によってだったとの経緯です。
ここで、日本とドイツは似ていると思いませんか。
観念論的な大勢の中にあって、ないし唯物論も観念論もはっきりしない社会意識の中にあるわけですが、その中で唯物論の意識的立場を、明確に擁護しようとしている人がいた。
これは、私などが中江兆民において見つけたことと重なるでしょう。日本だって、兆民が『続一年有半』で語ってますが、モヤモヤな事態のなかでの、明確な意識的な立場だったわけです。
ドイツと日本、マルクスと中江兆民ですが、これは状況がよく似ているところがある。このささやかな一点ですが、似ていると思いませんか。もちろん、マルクスの場合はその後40年の努力と作品がある、兆民は基本を表白したところで死去したし、受難な時代社会に日本はすすんだとの違いがあるんですが。
ようするに、マルクスはフォイエルバッハが主張しだした唯物論を、その基本を、あのドイツ古典哲学の観念論的な風潮が大勢をなしていた流れの中で、その中で意識的に唯物論の見地は基本は正しいと、その方向こそをすすまなければならない、と宣言して努力を開始しているんですね。
この『経済学哲学手稿』ですが、フランスに亡命した青年の、新婚生活のもとでもあり、たいへんな渦中での探究だったんですね。それは舌足らずな表現もあるかもしれません、しかしそれは確かに明確な表明を記録したものとして、私たちは今日に読むことが出来ると思います。
今回は、この点を確認したところまでです。
これでようやく、次回から本題の『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」に入ることになります。
『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法・哲学批判」の冒頭にある、フォイエルバッハ論に入るところとなります。
今回は、ここまでです。