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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」その9 マルクスの『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判』を学習しています。 国民文庫ではP205-241の37ページ、全体で64の文節からなります。 フォイエルバッハも、ヘーゲルの講義をじかに受講していたそうです。 ドイツ古典哲学の大方は観念論の中にあるじゃないですか、 その中にあって、初めて意識的に唯物論の立場を明確にした人が出た。 それがフォイエルバッハでした。 今日、それを確かめることが出来ます。
1839年には「ヘーゲル哲学批判」
そこからの抜き書きです。 P208 の第5文節ですが、 「フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法に対して一つの真面目な、批判的な態度をとったところの、そしてこの領域で真実の発見をしたところの唯一の人であり、総じて旧哲学の真の克服者である」。 と評価しています。
一つ、哲学も宗教と同じように、人間の本質が疎外された一つの形である。(これは『将来の哲学の根本問題』の引用に対する評価ですね)。 二つ、真の唯物論と現代科学をその思想の基礎においたこと。人と人との関係、すなわち社会関係をもその根本にあるものとしたこと。(ドイツの観念論のうっそうとした森の中にあって、こうしたクリアーに唯物論と科学の立場を明確にしたこと)。 三つ、否定の否定の理解の仕方ですが、こそれが意味するものが、絶対的なものであるかのようにとらえる理解ではなくて、おのれ自身にもとづく肯定的なもの(人間としてその人が理解しうるもの)としてとらえようとしていること。 以上は、私がちょっと意訳していますが、マルクスは基本な方向を積極的に評価しています。 結論的には、マルクスはヘーゲルの弁証法についてのフォイエルバッハとらえ方が、その内容と役割を評価できていない点を指摘しているんだと思います。 この点が、この「ヘーゲル弁証法批判」で明らかにしたい中心点だと思います。この点を明らかにしたいために、そのあとの検討が行われていると思います。
「1、だがヘーゲルは、否定の否定を—そのなかにある肯定的な関係からいって、真実かつ唯一の肯定的なものとして—そのなかにある否定的な関係からいって、いっさいの存在の唯一の真なる行為かつ自己実証行為として—解したことによって、彼は歴史の運動にたいして抽象的、論理学的、思弁的な表現を見いだしたに過ぎない。 2、そして、その歴史はまだ、一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史ではなく、やっと人間の産出行為、発生史にしかすぎない。われわれは、この抽象的形式を明らかにするとともに、 3、またヘーゲルにおけるこの運動が現代的批判にたいして、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における同じ過程にたいして対照的にもっている区別をも、あるいはむしろ、ヘーゲルにあってはまだ批判的でないこの運動の批判的なすがたをも、明らかにするであろう」(第9文節 P210-211) これから順次、これらの点を具体的に検討していくとの前置きしているわけです。
もう一つは、なんといっても大きなプレゼントとして、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』(1888年)があることです。これがその中心点を紹介してくれていることですね。 くりかえしますが、40年をさかのぼった若いころに探究し、確立しようとしていた唯物論的な弁証法の理論ですが、その時のなまの原石である『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」です。とかく字句の解釈を詮索することが主になりがちですが、そうではなく、その生きた精神を理解することが大事だし、その点で、私たちにとって『フォイエルバッハ論』は、やはり一番の参考となる著作だと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年03月22日 09時11分23秒
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