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みかんの木を育てる-四季の変化

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2024年03月18日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」その9 
  フォイエルバッハの唯物論

マルクスの『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判』を学習しています。

国民文庫ではP205-241の37ページ、全体で64の文節からなります。
そのはじめの部分は、フォイエルバッハの哲学についてです。(第2文節から第9文節)

ヘーゲルは1831年に亡くなりましたが、その後もその影響が絶大に大きかったこと。
その教え子たち、といっても学者ですが、それをどういかすか、こえるのか探っていた。

フォイエルバッハも、ヘーゲルの講義をじかに受講していたそうです。
この人たちの中から、フォイエルバッハが、一人、唯物論の立場からヘーゲルを批判し始めた。


ドイツ古典哲学の大方は観念論の中にあるじゃないですか、
その中にあって、初めて意識的に唯物論の立場を明確にした人が出た。
それがフォイエルバッハでした。

今日、それを確かめることが出来ます。




その著作ですが、岩波文庫で読むことが出来るんです。

1839年には「ヘーゲル哲学批判」
1841年には『キリスト教の本質』
1842年には「哲学改革のための暫定的命題」
1843年には「将来の哲学の根本命題」


日本の哲学者の先人たちは、これら大事な作品を日本語に翻訳してくれているんですね。
前回紹介しましたが、基本的に唯物論の立場の人であっても、それぞれ人によっていろいろな形があると、当たり前ですが。

そこからの抜き書きです。
『キリスト教の本質』から、「神の秘密は人間学である」(序文)。
『将来の哲学の根本命題』から、「近世の課題は、神の現実化と人間化-神学の人間学への転化と解消であった」(P8-1)、「思弁哲学の本質は、合理化され、実現され、現実化された神の本質意外の何ものでもない」(P9-5)。


マルクスの『経済学哲学手稿』は1844年ですが、1841年に刊行された『キリスト教の本質』について、これを読むのは大変なはずですが、マルクスは、ただちにこのフォイエルバッハの方向と内容を評価したようで、

P208 の第5文節ですが、

「フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法に対して一つの真面目な、批判的な態度をとったところの、そしてこの領域で真実の発見をしたところの唯一の人であり、総じて旧哲学の真の克服者である」。

と評価しています。


そして、マルクスはフォイエルバッハの偉大な業績として、具体的に次の三つをあげています。

一つ、哲学も宗教と同じように、人間の本質が疎外された一つの形である。(これは『将来の哲学の根本問題』の引用に対する評価ですね)。

二つ、真の唯物論と現代科学をその思想の基礎においたこと。人と人との関係、すなわち社会関係をもその根本にあるものとしたこと。(ドイツの観念論のうっそうとした森の中にあって、こうしたクリアーに唯物論と科学の立場を明確にしたこと)。

三つ、否定の否定の理解の仕方ですが、こそれが意味するものが、絶対的なものであるかのようにとらえる理解ではなくて、おのれ自身にもとづく肯定的なもの(人間としてその人が理解しうるもの)としてとらえようとしていること。

以上は、私がちょっと意訳していますが、マルクスは基本な方向を積極的に評価しています。

問題となるのは、その次の、P209からの第7、8、9文節です。

結論的には、マルクスはヘーゲルの弁証法についてのフォイエルバッハとらえ方が、その内容と役割を評価できていない点を指摘しているんだと思います。

この点が、この「ヘーゲル弁証法批判」で明らかにしたい中心点だと思います。この点を明らかにしたいために、そのあとの検討が行われていると思います。
だからここだけで、その断言的な結論を、理解できるわけではないと思うんですが。


しかし、それをここに書き抜いてみます。

「1、だがヘーゲルは、否定の否定を—そのなかにある肯定的な関係からいって、真実かつ唯一の肯定的なものとして—そのなかにある否定的な関係からいって、いっさいの存在の唯一の真なる行為かつ自己実証行為として—解したことによって、彼は歴史の運動にたいして抽象的、論理学的、思弁的な表現を見いだしたに過ぎない。

2、そして、その歴史はまだ、一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史ではなく、やっと人間の産出行為、発生史にしかすぎない。われわれは、この抽象的形式を明らかにするとともに、

3、またヘーゲルにおけるこの運動が現代的批判にたいして、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における同じ過程にたいして対照的にもっている区別をも、あるいはむしろ、ヘーゲルにあってはまだ批判的でないこの運動の批判的なすがたをも、明らかにするであろう」(第9文節 P210-211)

これは、マルクスのヘーゲル弁証法に対する問題点の指摘ですね。この点を明らかにしたいと思っているとの予告ですね。これから検討していくなかで、これら論点を具体的にあきらかにしていくということです。見方を変えれば、ヘーゲル弁証法にたいするフォイエルバッハのとらえ方には、これらの点がないとのことですが。したがって、ヘーゲル弁証法に対するフォイエルバッハがおこなった批判とは違った点で、ヘーゲルの弁証法は批判されなければならないとのマルクスの課題認識があるということです。

これから順次、これらの点を具体的に検討していくとの前置きしているわけです。

この論文は率直なところ分かりにくいんです。
なんといってもこの草稿は、それはこのマルクスが、24-5歳の時にはじめてヘーゲルと格闘していた時期のことであり、相手のヘーゲル自身の展開が分かりにくいし、それをさらに解きほごして、批判するということですから。その最初の当時の表現は、わかりにくい面があるんです。


ただ、私たちが立っている地点ですが、2つの点で理解しやすくなっています。
一つは、その後の社会史のあゆみから、問題を歴史的に全体的に見ることが出来るからです。
私たちは、その後の事態の展開の中で、理論とともに歴史的により具体的に展開された事実によって、そこではいったい何が問題だったのかを、より客観的にみることが出来るわけです。

もう一つは、なんといっても大きなプレゼントとして、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』(1888年)があることです。これがその中心点を紹介してくれていることですね。
エンゲルスとしては、難解な文章の中にある努力の内容を、忙しい現代の勤労者たちにも理解しやすいように、だれにもわかりやすく伝えようとして、晩年の円熟した学識をもってまとめかえしたわけで、それが『フォイエルバッハ論』だということなんですね。

くりかえしますが、40年をさかのぼった若いころに探究し、確立しようとしていた唯物論的な弁証法の理論ですが、その時のなまの原石である『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」です。とかく字句の解釈を詮索することが主になりがちですが、そうではなく、その生きた精神を理解することが大事だし、その点で、私たちにとって『フォイエルバッハ論』は、やはり一番の参考となる著作だと思います。

今回はここまでです。






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Last updated  2024年03月22日 09時11分23秒
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