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みかんの木を育てる-四季の変化

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2024年04月05日
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​ヘーゲル弁証法の成果(その12)​

マルクス『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」を学習しています。
今回は、12回目ですが。
「序論」と本論の区別と、ヘーゲル弁証法の最終的成果とは何かです。
ようやく本題にとりかかったところです。

一、はじめに、『経済学哲学手稿』の日本語訳、つまり翻訳についてですが。




手元には、『経済学哲学手稿』の3つの翻訳があります。

①藤野渉訳 国民文庫 1963年3月15日刊
②城塚登・田中吉六訳 岩波文庫 1964年3月16日刊
③真下信一訳 マルクス・エンゲルス全集 第40巻 1975年3月31日刊

この3つです。

私などにとってマルクスの『経済学哲学手稿』というのは、必ずしも読みやすい本ではなかった。何を言っているのか、理解するのに苦しむところが多々ありました。それで、以前には、この本のむずかしさは、それを日本語に翻訳した訳者のせいじゃないか、などと不遜にも思った時もありました。

しかし、最近では、そうじゃないんです。訳者の人たちは、それぞれその人なりに原文を正しく理解しようとしており、その結果を読者に一生懸命に伝えようと努力していると感ずるようになりました。
しかしそうなると、問題は読む方の問題です。読む側においても、それなりに努力して心眼をきたえることが必要なんだ、最近そう思う様になりました。なかなか理解できないので、苦し紛れに自分勝手な、それこそ勝手な解釈をおしつけがちです。が、そうじゃなくて、「学んで、時にこれを習う」-こうした態度が必要なんじゃないかと、最近ですが考えるようになりました。

二、私などの『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」学習は、その発信は二度目なんです。
前回は2012年でしたが、その時は、この部分について、マルクスの言っていることの初めから終わりまで、すべてを理解しようと頑張ったんですが。学びとしては、当然なんですが。

しかし今回、ふたたび「ヘーゲル弁証法批判」の学習を必要と感じているんです。というのは、現代は、テーマとなる弁証法について、ますますそれらを理解する必要があるのではと感じているのと、同時に、以前に発信した時の理解については、自分でも不十分さを感じるようになってるからなんですが。


そもそもこの小論ですが、マルクスの主題は、ヘーゲル弁証法をどのようにとらえ、それをどの様に批判したか、つまり唯物論的な弁証法をどのように明確に確立したかということですが。歴史上はじめて、新たな世界観、唯物弁証法というものが問題になったわけで。どうしてそうした問題が、どの様な前提となる素材をもとにして、どうして課題として問題が意識にのぼるようになったのか。結果となると当たり前のようですが、新規に開拓しようとするとなると、単純ではありませんね。マルクスにとっては、そうした問題だったということです。

私の前回、2012年の学習というのは、いわば私が初めて東京に出てきた時の印象のようなもので、見ること聞くことそのすべてが新しいことがらで、まったくその新しさに右往左往して、始めから終わりまでそのすべてを、まったくキョロキョロと、白紙状態において見聞しだしたようなものだったんです。

しかし今回、同じ対象ですが、あらためて当たってみると、その認識が違ってくるんです。
違いの第一番は、その中身ですが、以前はトンネルの暗闇をただ突き進むだけだったんですが、今回あらためて読んでみると、そこには起承転結の構成がある。それを大きくみると、そこには「序論」と「本論」の二つの部分があること。最近のことですが、そのことに気がつきました。


「序論」というのは、第1文節から第14文節までで、そのあとに「本論」の『精神現象学』の「絶対的な知」そのものの検討に入っていく、この二つの部分です。

三、その「序論」ですが、ME全集の真下訳では、P490の第1文節からP496の第13文節までですが、そこには5つの指摘があります。

それは次の5つです。

1、ヘーゲル弁証法に対して無自覚なのが一般的な状態であり、その検討こそが必要だと。第1文節から。
多くの人がヘーゲル弁証法について語っているけれど、しかしその弁証法に対する意識性がないと。

2、そうした中で、フォイエルバッハのヘーゲル哲学批判がすばらしく、画期的だと。第4文節から。
フォイエルバッハの3つの偉業、しかしそこでもヘーゲル弁証法に対しては認識が弱いと。

3、フォイエルバッハのヘーゲル哲学の部分批判でなく、ヘーゲル哲学の全体を視野に。第10文節から。
ヘーゲルの体系「エンチクロペディー」、そのヘーゲル哲学の全体がもっている特徴について。

4、そこにはへーゲルの二重の誤りがある。マルクスのヘーゲル哲学批判。第12文節から。
人間の疎外を思想としてしか見ない、その取り返しは絶対知を認識しようとすることでしかない。

5、『精神現象学』の最終的な成果というのは、弁証法をとらえたこと。第14文節から。

だいたいわかりますか。ヘーゲルの根本的業績として弁証法をとらえたことと認識しつつも、その人間疎外は思想問題でしかなく、その疎外からの人間回復は認識努力でしかない、それがマルクスの批判です。

これが「序論」です。
マルクスはいろいろな意味深長なことを述べているでしょう。しかしその内容を理解するのはなかなか厄介です。最近、思うんですが、この「序論」の性格を理解しておくことが大切だと思うんです。
これまで「序論」を理解するのは、わかりにくくやっかいだった。突然に、藪から棒に重要そうな断言が出てきたり、そこで議論ですがいったい何が問題になっているのか、なかなかわからないわけですから。そうした言葉の意味(概念)を、あれこれ一生懸命に解釈しようとするじゃないですか。わかったようでも確信がなく半信半疑の状態になる、それが前回の学習発信した時の、悪戦苦闘した時の状態だったんです。苦し紛れに「訳者の、その訳の仕方に問題があるんじゃないか」などと勘ぐったりしていたんです。


しかし最近、達磨大師は、周りで知った研究者の人たちと話す機会があったんですが、長年研究してきた人たちのなかにも、同じような苦しみがあること。やはりその苦しさのあまり、一生懸命にマルクスや他の権威者の言葉を引用することをもって、自身の説明にかえたりしている。また他にも、権威者の文章を分析することで悟性的に納得している人たちもいるわけで。なかには、自分こそがマルクスの一番の理解者だとの態度をしながら、じつは自分勝手な「解釈」を並べてるような人もいるといったわけです。
これでは私などの一般人が、問題の事柄を理解したくてあれこれの解説書を読むんですが、それを漫然と聞いていると、それによりますます問題がわかりにくくなってしまう、そうしたことを感じさせられることも多々あるんです。やはり他力本願ではだめで、自分自身で納得するまで苦労する覚悟が必要だということです。


続きですが、私など思うんです。
この「序論」部分というのは、「本論」を理解するうえでのマルクスのアドバイスじゃないかと。
実際にそれは、「本論」を検討をした結果による事柄もあるんです。ですから、その結論的な事柄を読んだだけではすっきりと理解することは不可能でして、そこにいたるまでの「本論」の考察過程をたどることが必要なわけで、この部分を読んだだけですべての事柄を得心できるといった性格のものではないということも感じてくるんです。ただ結果だけをみたくらいで、すべての苦労の中身が分かるといったものじゃ決してないわけです。
ということは、ここだけで完璧に理解することが出来なくてもよし、だいたいそういうことが結論としては出てくるかもしれないから、今はこれをアドバイスとして念頭に置いておき、さらに先にすすむようにしてほしい。そうすれば、「本論」で検討していることも理解しやすくなるんだから。けっして苦し紛れの勝手な解釈などを信じたり、ふれまわったりして混乱させるようなことをしては駄目だよと、マルクスは言っているんじゃないでしょうか。
私などはそのよう読みました。

四、そのように見たとき、ここでマルクスが「ヘーゲルの『精神現象学』の最終成果における偉大なものが弁証法だ」との点についてですが。第14文節です、全集ではP496です。
最終的にヘーゲルの偉大な成果は弁証法だと、これがマルクスの評価です。
ここれは「本論」を通しての結論だろうと思いますが、しかしあらかじめここで示されている概観については、確認しておきます。

第一に、ヘーゲルは人間の自己産出を、原因と結果からではなく、一つの産出過程として理解していること。その産出過程の結果として対象化するということ、さらに同時に対象性の除去として、外在化したものを取り止めと(とりもどし)としてつかむところにある。

第二に、このことは、ヘーゲルは労働の本質をつかんでいること。それは対象としての人間は、現実的で真にある人間というのは、彼自身の労働による成果としてつくりだされたものとしてある、ヘーゲルのこうした労働に対する認識をマルクスは評価しています。

このことは、労働が人にとっての対象物をつくりだしている、それとともに人間自身をつくってきた。ルターが対象としての崇高な神というのは、人間自身がつくりだしたもの、その人自身の心の中にあるとの認識。イギリスの経済発展の富・価値というのは、労働にその本質があるとするスミスやリカードの経済学説。いずれも人の労働が、人間社会の基本にあるとの共通する認識ですが、ヘーゲルもまた、その労働の役割・意義をことをとらえていた、マルクスはそのことを評価しているわけです。

第三に、「類的な人間の存在」に対する一人の人間としての接し方、現実的な能動的な対処の仕方ということが、ここで言われています。

このことを私流に理解すれば、今の現在人の生活というのは、車や電車を使って移動し、電気釜でご飯を炊いて食べているわけですが、これらの技術手段はこれまでの人間たちの総労働によって、その歴史的な成果によって成り立っているわけでして。しかし、私などの一人の個人からしたら、電気理論も鉄鋼製品の加工技術も知らないわけで、その類的な成果に対して疎外された(無知な)関係にあるわけですが、しかしそのご利益にはあずかって暮らしている。人類の歴史が生み出したこの歴史的成果をというのは、無知な私などの労働もその一因としてかかわっているわけで、無知な人間の全体が集まって今の全体の社会をつくっている。
個人にとって社会全体(類的な人)は疎遠な他者との関係になっているけれど、このつくりだした関係があるわけで、そのつながりを個人がとりもどすことが大事で、それが疎外されてる人間の疎開から回復することであり、類的な人間全体をしがない個人がつかみとりもどすということであり、そうした類的なものをとりもどす運動が「共産主義」というものなんだ、と。

これは「ヘーゲル哲学批判」が、『経済学哲学手稿』の他の緒論、経済学や社会主義思想とも、大きく関連していることをしめしています。マルクスが、短期間に壮大な理論の開拓努力をしていることが見えてきます。


以上、この「序論」部分ですが、あらかじめの予告として示唆しています。そうしたことが「本論」からみちびきだされてくるこがらなんだと、それがマルクスが「本論」の探究の結論としてみえてくるんだと予告している、そうした指摘をしているものとして私などは読みました。

まぁ、それが本当かどうか、これから探究していくことですが。

今回は、ここまでです。
次回からはいよいよ「本論」にはいります、ヘーゲル弁証法の検討に入っていきます。

 






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Last updated  2024年04月07日 08時32分14秒
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