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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクス「ヘーゲル弁証法批判」14 今回は、前回と重なる部分もありますが、 一、ヘーゲル哲学の成果としての弁証法について(第14文節) 第14文節ですが、マルクスはヘーゲル哲学の最終成果として弁証法にあると指摘しています。 「運動させ産出する原理としての否定性の弁証法」-これがマルクスのここでの規定です。 (もちろん人により、また同じ人でも場合により、弁証法にはいろいろな規定の仕方があると思うんです。その中身をどうつかむかは、それぞれが探っていくべき課題ですが。)
「ここにあるヘーゲル(弁証法)の第一のすばらしさは、人間が自分自身の産出を、結果としてだけでなく、一つの過程としてとらえたこと。対象化することを、対象性をなくすこととしてとらえたこと、言い換えれば、外化を外化の止揚としてとらえたこと。 (結果をとらえるだけでなく、それをつくられつつある過程として、運動としてとらえている。ものをつくる、対象化することは、それを実現すると対象というものはなくなると。また、対象としてあったものが働きかけにより、自分のうちにとりもどされる、と) 第二に、それは、労働の本質をとらえており、人間自身というものを自分の労働の成果としてあるものだとらえている点にあること。 第三に、人間は類的な(社会的な)存在であり、それに対する一人の人の能動的なかかわりについて。 (この類的な人間と一人の人について、前回、私なりの理解として、このことを私流に理解すれば、今の現在人の生活というのは、車や電車を使って移動し、電気釜でご飯を炊いて食べているわけですが、これらの技術手段はこれまでの人間たちの総労働によって、その歴史的な成果によって成り立っているわけでして。しかし、私などの一人の個人からしたら、電気理論も鉄鋼製品の加工技術も知らないわけで、その類的な成果に対して疎外された(無知な)関係にあるわけですが、しかしそのご利益にはあずかって暮らしている。人類の歴史が生み出したこの歴史的成果をというのは、無知な私などの労働もその一因としてかかわっているわけで、無知な人間の全体が集まって今の全体の社会をつくっている。
つぎは、ヘーゲル哲学の全体を通して、特徴となっている「一面性」の問題です。 まずマルクスは、ヘーゲルが人間の労働の本質をとらえていること、それは「当世の国民経済学者たちの立場にたっている」と、これを高く評価しています。 しかし、問題はそこからです。 第一は、労働の肯定的な面のみを見て、否定面をみていないこと。 第二は、ヘーゲルはまた抽象的な精神的な労働しかみてない。外在化のあらわれについてそれら哲学に・学問としてとらえることこそを労働の内容としてとらえている。 第三に、先行する哲学のすべてを、行為として、そしてヘーゲル自身の哲学の契機をなすものとしてとらえるから、ヘーゲル哲学こそが最高の総括的な絶対的な存在ということになっちゃう。 しかし、それはまた次回とします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年04月15日 11時57分43秒
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