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みかんの木を育てる-四季の変化

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2024年04月19日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」15
 新たな地平を刻んでます

1844年に、24-5歳のプロイセン(ドイツ)の若ものが、ヘーゲル哲学と格闘した。
そして『法の哲学』を、そして『精神現象学』の最終章「絶対知」を吟味せざるを得なかった。
それらがヘーゲル『法哲学』の国法論批判であり、この『経済学哲学手稿』でした。
今から200年近くの時をさかのぼる努力ですが、
私などは「なんじゃそりゃぁ」などとおもいつつ、学んでいます。

​一、文章の基軸の理解が大切だと思うようになりました​​

以前に読んだとき、マルクスはヘーゲル『精神現象学』の「絶対知」章のたった1ページを、8つのパートに分けて、なおかつ二項と六項の、たった二つの項を徹底して吟味しているのに驚かされました。
『精神現象学』は大部なものです。しかし、そのたった一ページの問題を検討しているかのように見えたんです。

しかし、今回、思うんです。
それは叙述の関係であり、問題とするところをもっともよく示している箇所だったからであり、やはりその基礎には、『精神現象学』とその「絶対知」の章についての全体的な検討があると。
その基礎があるからこそ、この8つの項を批判できるんですね。

なぜ、マルクスはこのようなややこしい難書に挑戦したのか。
それは、マルクスが唯物弁証法と唯物論的歴史観を発見し、それをまとめようとした努力の記録だったとおもいます。1845年にフランスから国外追放されたことで、出版する契約までしていたのに、草稿のままお蔵入りとなり、90年の時を経て1932年にソ連ではじめて刊行されました。

マルクスは、このヘーゲル哲学、その『精神現象学』の「絶対知」について、
この難書を正面に、三重にわたって説明しています。

(この論文に、文節ごとに通しナンバーをつけてみました。問題となる個所をはっきりさせるためですが。私なりには全体で64の文節ありました)


一つは、「ヘーゲルにおける二つの誤り」、第12文節ですが。
おもうに、これはマルクスの結論を端的にまとめた叙述だと思います。


二つ目は、「あらかじめ次のことだけは言っておこう」(第16文節)の箇所と、それと問題の「その要点は」(第17・18文節)です。

この二か所で書いているのは、同じことかとおもいます。これからヘーゲルの叙述を検討していくうえで、あらかじめヘーゲルの叙述で、何が問題なのか、どこに問題があるのか、難儀している人に対して、それを理解しやすくするために、「あらかじめ」頭をならそうとして、いろいろな角度から、予備的にその中身を紹介しているものとおもわれます。

その上で、問題とされるのは『精神現象学』の最終章「絶対知」の冒頭のところです。
そのものを8つの項に区切って、マルクスは確認しています。第22文節ですが。
「絶対値」の章からたった1ページですが、それを8つの項に区切ってを抜粋しているわけです。

「その要点は」(第17・18文節)それ以前の二つの箇所というのは、その本論を理解しやすくするために、「序論」的なものとして、いわば思考トレーニングをしているといった性格の部分なんですね。

そのうえで、具体的な検討に入っていくわけです。


したがって、その事前の案内部分ですが、ちょっと読むと「藪から棒」の託宣的に述べているよう聞こえもするわけでして。理解するのに苦労させられる。いったいどのように解釈したらよいのか。いろいろな人が、それぞれ自己流の解釈をしているところでもあります。

私などが思うのには、マルクスのあらかじめの説明ですから、そこだけで完全な理解が出来るといったような性格のものではないわけでして。その後の本論部分に具体的な検討があるわけです。その関係が、あまたの解説者たちが、完全な理解を示そうとして、苦労させられているように思われます。

その結果、その人流の恣意的な、というか勝手な「解釈」をもって、説明してきた。そのために、いっそう混迷するような状況があるように思われます。いくら解説書を読んでも、ますますわからなくなるのは、そんな原因も関係してるんじゃないでしょうか。

したがって、結論です。
この序論的な部分については、そうした議論の組み立て、性格を理解しておくことが大切で、マルクスとしては「ある程度のことを理解したら、その先にすすむように、その先に問題の検討や解明があるよ」といっているんじゃないかと思います。

実際に、マルクス自身が言っていることを紹介します。

「ところでヘーゲルの一面性と限界については、われわれはこれを(この後に行われる)『現象学』の結びの章(絶対知)のところでくわしく示してみせるだろう。ちなみにこの章には現象学の要約された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係もまたこれらの両者およぞ両者の相互関係にかんするヘーゲルの意識も含まれている」と。(第15文節 ME全集第40巻 P196)

一から十まで、完ぺきな理解を求めているわけではないんです。

二、「貫徹された自然主義、ヒューマニズム​」の謎が解ける




私などには、これまでなぞの一節があったんです。少し先になりますが、第26文節です。

「​​ここにわれわれは、貫徹された自然主義、あるいは貫徹されたヒューマニズムがいかに観念論とも唯物論とも異なりながら、同時に両者を統一する、両者の真理であるかをみる。同時にまた我々は、いかに自然主義のみが世界史のいとなみを把握する力があるかをみるのである」(P500)

わかりますか、この意味が。
わたしなどは、なんじゃこれは??? これまでずーと謎だったんです。
苦し紛れに、あれこれと考案しようとしていたんですが。

今回、蛍光灯のように、頭がひらめきました。

もちろん前後の文章にそのヒントがあるわけですが。

同時に、自分流に仮説を立ててみることにしました。
ということで、これは、あくまで私などの仮説なんですが。


一つは、「貫徹された自然主義」ということですが。
ヘーゲルは対象というのは自己意識の外化したものとみています。人間の意識から独立した対象的存在というものを見ようとしていません。あくまでそれは人間の意識がつくっている。その点からしたら世界というのは意識がつくっているものでして、ようするに唯心論なんですね。
この意識の外側の世界を認めようとしない。自然というものの人間からの、自己意識からの独立性を認めていないわけです。そこのところに自然に対する不徹底さがあるわけで、貫徹されない自然主義があるわけです。マルクスとしては、人の意識の外側にある自然の存在そのものをみとめている、ようするにそれは唯物論なんですが、そこに自然主義の徹底した姿があることを指摘しているものと読みました。


もう一つ、「貫徹されたヒューマニズム」とは何なのか? この問題です。
ヒューマニズムというのは人間を、その尊厳を大切にする立場ですよね。それがマルクスによって、ここで突然に『ヒューマニズム』なる言葉が出てきた。どうしてなのか?どの様な意味なのか?どうしてここでてきたのか?ここには説明はありませんから、 なぞでした。
そもそもヒューマニズムというのは、ルネサンスの人間復興や、モンテーニュやラブレーといった人が思い浮かびます。「われおもう、ゆえにわれあり」、人間の尊厳を近代の入り口で確認した言葉です。
それがどうして、ここにでてくるのか? 


ここからは私などの仮説ですが。
私などが想像するのに、「神は人間がつくりだしたもので、あくまで人間こそが主人公である」、これはフォイエルバッハが『キリスト教の本質』や『将来の哲学の根本命題』で強調している根本的な立場であり、考え方ですね。このことが、中世から近代へのヨーロッパで、ルネサンス、啓蒙思想などなかで、ここに大きなテーマがあった。神を中心とする考え方から、人間を中心とする立場への大きな転換です。
マルクスは、この唯物論の立場にこそ人間中心のヒューマニズムの精神がある、そのことを指摘しているんじゃないでしょうか。

さらにもう一つあります。
これまで、精神ということの尊厳、精神の能動的な役割、理想的な精神をもとめる、などということは観念論の世界の中で探究されてきた。それはカントの理性の批判、ヘーゲルの情熱や自由論、これらはいずれも観念論のなかで大事なテーマとして鍛えられてきた。これにたいして18世紀の唯物論やフォイエルバッハの唯物論は、これに対してどのように問題が取り上げられ、検討されてきたのか。これはこれで大問題です。根源性の問題だけでなく、精神の果たす役割の問題です。唯物論にも色々な特徴があるけれど、それまでの唯物論には機械論的な特徴がみられ、それをもっと発展させなければならない。

ようするに、「
観念論とも唯物論とも異なりながら、同時に両者を統一する、両者の真理であるか」ということですが。それがしめしているのは、新たな能動的な、精神の活動の尊厳をも生かした唯物論というものを、弁証法的な唯物論が課題となっている。マルクスはそのことを強調したかったんじゃないでしょうか。それでは、唯物論的な弁証法というものを、その可能性をどの様に現実的な切りひらくのか、この探究課題が問題になっているんじゃないでしょうか。

さらに、もう一つあります。
これは「同時にまたわれわれは、いかに自然主義のみが世界史のいとなみを把握する力があるかをみるのである」-この言葉が意味することですが。

これもまた、私などの推測ですが。
ヘーゲルは「歴史哲学」にみるように自由の発展ということを洞察していました。しかし、その事実の根拠はどこにあるのか。ヘーゲルは精神の自由への発展という精神が確信でした。しかしその大勢の流れは正しいとしても、いったいその根拠はなんなのか?

この問題ですね。
意識はそれ自体から解きほごせれるものではなくて、そうした意識を規定するものがある。
これですね。
これは世界史のすすみゆきに対して、その自由な精神というものを規定するところの問題がある。
ようするに、それが唯物論の立場、唯物的な歴史観を洞察し、探究することだったんですね。
私などはそのようにとらえてみました。


これらは、あくまで、私などの推測ですが。

これから、本論となる「絶対知」の具体的な検討に入っていくわけですが。
おそらく、そうした事柄が、これから出てくるんじゃないかと、わたしなどは期待している次第です。

今回は、ちょっと先走っていますが、
しかしそれは、大事なことだとおもうので、紹介させていただきました。
もしも誰か、このことを解説されている人や、そうした文章があったら、紹介してほしいのですが。

今回は、以上です。

参考文献、『ヘーゲル「精神現象学」入門』(加藤尚武編 有斐閣選書 1983年刊行)
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Last updated  2024年04月21日 10時58分55秒
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