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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクス「ヘーゲル弁証法批判」16 いよいよマルクスのヘーゲルの『精神現象学』「絶対知」の論点に対する批判にはいります。
しかし、そうしたヘーゲルの弁証法の成果を確認した時、そこには一面性の誤りがふくまれている。それを分析してゆがみを正すことで、弁証法を正確な姿にたてなおす必要がある。この歴史的な宿題があるというのがマルクスの課題認識です。 その問題の中心的内容は、すでに、これまで学習してきたなかで提起されてます。 そうした結論をみちびき出しきた過程、すなわちマルクスが具体的に探究・検討した過程についてです。 わたしなどは「なんじゃ、こりゃぁ???」ですが。 まぁ、私などは、これからその検討をさぐろうとしているわけですが。 1、この「ヘーゲル弁証法批判」を検討にあたって、依然として達磨大師ですが、しかしポツポツとまわりある努力が見えてきています。 また、今日の現行憲法のもとで、「平和」を建前としつつ軍備の大増強に突っ走る、国民が主権者のはずなのに歪んだ政治によりおしつぶされている。選挙じゃないけど、木が沈んで石が浮かぶような、日々に世知辛くも、無茶苦茶な事態に直面させられているわけで、なんとも歯がゆい事態わけですが。 しかしこの探究も、古今東西そのどこかで、こうした問題を正す力をつくることに、どこかでつながっていると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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「これまでの考察をまとめてみると」は、大変参考になりました。翻って、「自己意識の外在化」・「対象の外在化と対象性を揚棄して…」の方は、荷が重すぎます。
話は前後しますが、4月19日付け「15 新たな地平を刻んでます」の「ちょっと先走」った書抜き「貫徹された自由主義、あるいは貫徹されたヒューマニズム」から、唯物論の把握を、「同時にまた我々は、いかに自然主義のみが世界史のいとなみを把握する力」から史的唯物論の発見を読み取る指摘には稽首します。 (2024年04月24日 14時38分11秒)
渡政(わたまさ)さんへ
「自己意識の外在化」・「対象の外在化と対象性を揚棄して…」 これは、ヘーゲルの言い方はやっかいですが、言っている中身は簡単なことです。 私たちが見ている世界(外的な世界)というのは、私たちの精神(意識)が、対象をそのようにとらえた像だということ。それまでの哲学史では「素朴実在論」で、意識(精神)は意識の外にある外的存在そのものだということでなんの疑問も抱かなかった。そこにカントの『意識の外の「物自体」というのは、あるかもしれないが、意識の外側なんでわからない」と。 ヘーゲルは、その物というのは人間の意識がつくりだしたものだと。世界というのは、人間の意識がそのようにとらえた「対象性は人間の意識の外化したものだ」と。どどのつまり人間の精神がとらえた姿であり、人間の精神なんだとなんだと。 私なども、よくよく考えてみると、これは当たっていると思うんですよ。ただし、マルクスも指摘しているように、それは人間の意識の外側にある、意識から独立したものごとを、客観的な存在を、人間の思考が、思惟がとらえたものだ、と。 こんな、きわめて基本的なことをめぐって、哲学者たちは一般人には難しい言い方で、しかしその思想的な生命をかけて、真理はどっちにあるのかと、大論争してきたんですね。 まわりは、わけのわからない議論にくたびれ切ってしまっていて、勘を頼りにどちらが正しいかおみくじを引くような事態にある状況とみます。 しかし、そのもつれを追跡すると、きわめて基本的な事柄であり、私たちが日常的に普通に使っていることがらではないかと、私などは感じています。そこのところを紹介したいと思っているんです。 それと「唯物史観」についてですが、 1.その真理を洞察したことと、2.その理論を解明して、なおかつそれを具体的な問題に適用することとでは、この二つは大違いです。 その理論の解明は、『ドイツ・イデオロギー』でこころみているし、その近代史についていえることは『共産党宣言』だとおもいます。また、その後の歴史社会・経済論としての探究は『資本論』と思います。 残念ながら、その関係を紹介する努力が、一方では「当たり前」とされ、他方今の世の中の多くは、問題そのものを意識していない一般の事態がある、そのように感じています。 だからこそ、ブログの手段を使って、私などは問いかけているんですが。 当り前かもしれませんが、まともな反応が鈍いことに、私などは感じさせられています。、 (2024年04月25日 18時04分35秒) |