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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクス「ヘーゲル弁証法批判」18 ヘーゲルは弁証法を初めて意識化した人です。
ヘーゲルが最終章「絶対知」でのべているのは、どのようにしてその対象性を克服して、自己のものに取り返すのか、です。
その内容は、人間がはたらくことでつくりだしたものなんだけど、それが疎遠なかたちで対象化されてある。それを今度は人が取り返すという一般的な原理です。
「新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書として、はかりしれないほど貴重なものである」 このことに、つながっているわけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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主文は珍紛漢紛(チンプンカンプン)です。
自己意識は、「人間がはたらくことでつくりだいした」ものであるにもかかわらず、「それが疎遠なかたちで対象化される。」そこで「今度は人がとりもどす」! 商品は、労働者が己が命をつぎ込んだ生産物が、労働者の基を離れ、労働者を資本として支配する。ということなのかしら? (2024年05月17日 11時58分36秒)
渡政(わたまさ)さんへ
「商品は、労働者が己が命をつぎ込んだ生産物が、労働者の基を離れ、労働者を資本として支配する」-これもそうだと思います。労働行為によって、その過程の結果として対象物ができる。それは労働者から独立したものとしてある。疎遠な独立した対象としてある。自分がつくったものなのに、今度はその対象物がものごとの支配的な(資本)として存在するようになる。この疎遠な関係をとりもどして、自己の力を認識するということ。 そのことの抽象的で一般的な形で、ヘーゲルは『精神現象学』「絶対知」で述べている。すなわち「自己意識は、自分が外化したものをとりもどす、したがって、その他在のなかでおのれのもとにある」との言い方で述べていますが。そこで肝心なのは意識の対象性を克服することであり、精神がそれをとりもどす運動だ、と。 この「対象化したものをとりもどす運動」いうのは弁証法の中味であり、それを表現した一つの形ですが。ことをマルクスも確認・評価していて、『経済学哲学手稿』「ヘーゲル哲学批判」は、その主張の中にある一面的な面、誤りを析出することで、唯物弁証法を明確にしようとしているわけです。 これって、弁証法の内容であり、最初にヘーゲルが『精神現象学』で、彼の言い方で哲学として、抽象的にではありますが、歴史上最初にはっきりと展開したことです。 『歴史哲学』では、大きく人間がつくりだした世界について、世界史の発展・あゆみについて、この具体的領域において論じていたわけで、それを私などは『歴史のなかの弁証法』でさぐった次第です。 (2024年05月17日 18時22分10秒) |