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2024年05月10日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」18
 「自己意識は他在のなかでおのれのもとにある」

ヘーゲルは弁証法を初めて意識化した人です。




今回は、『精神現象学』の最終章「絶対知」の冒頭には、
8つの要点にまとめられています。
マルクスは『経済学哲学手稿』のなかで、この箇所を取り上げています。


「(六) 自己意識は外化した対象性をおのれの中に取りもどす、従って、その他在のなかでおのれのもとにある」(国民文庫 P220)


この内容というのは、人がものを知るというのは、自己の意識を対象化することにより、その対象化したものを通してものごとを知ることができる、この点をとらえているわけですが。

ヘーゲルが最終章「絶対知」でのべているのは、どのようにしてその対象性を克服して、自己のものに取り返すのか、です。


「なんじゃ、これは? 」ですが、
この内容というのは弁証法ですね。
ものを規定し、つくりだす否定の弁証法、精神の運動ということですね。
ヘーゲルは、『精神現象学』(1807年)、この初期の著作において、弁証法をはじめて明らかにしているんですね。

その内容は、人間がはたらくことでつくりだしたものなんだけど、それが疎遠なかたちで対象化されてある。それを今度は人が取り返すという一般的な原理です。
それは抽象的一般的にいえば「否定の否定」ということですが。

ヘーゲルという人は、すごいですね。
そして、それを批判したマルクスも、またすごい人ですね。


マルクスは、当時26歳ですが、
1844年『経済学・哲学手稿』において、その『精神現象学』の「絶対知」において、ヘーゲル弁証法を検討しているわけです。
いったい弁証法の意識化は、人間にとってどの様な功績となるのか。
また、それは私などにはわかりにくいものですが、そのわかりにくさにはどんな問題があるのか。
そこから何を引き出したのか。

マルクスは1845年の春に「フォイエルバッハにかんする11のテーゼ」のメモを残しています。
これについてエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で指摘してますが、

「新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書として、はかりしれないほど貴重なものである」

このことに、つながっているわけです。


私などは、今回、あらためて『経済学哲学手稿』「ヘーゲル哲学」を通読したわけですが、
これから、それをまとめることが求められているわけです。






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Last updated  2024年05月10日 22時21分45秒
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Re:マルクス「ヘーゲル弁証法批判」18「他在の中で己のもとにある」(05/10)   渡政(わたまさ) さん
 主文は珍紛漢紛(チンプンカンプン)です。
 自己意識は、「人間がはたらくことでつくりだいした」ものであるにもかかわらず、「それが疎遠なかたちで対象化される。」そこで「今度は人がとりもどす」!
 商品は、労働者が己が命をつぎ込んだ生産物が、労働者の基を離れ、労働者を資本として支配する。ということなのかしら?
(2024年05月17日 11時58分36秒)

Re[1]:マルクス「ヘーゲル弁証法批判」18「他在の中で己のもとにある」(05/10)   hanatachibana さん
渡政(わたまさ)さんへ
「商品は、労働者が己が命をつぎ込んだ生産物が、労働者の基を離れ、労働者を資本として支配する」-これもそうだと思います。労働行為によって、その過程の結果として対象物ができる。それは労働者から独立したものとしてある。疎遠な独立した対象としてある。自分がつくったものなのに、今度はその対象物がものごとの支配的な(資本)として存在するようになる。この疎遠な関係をとりもどして、自己の力を認識するということ。
そのことの抽象的で一般的な形で、ヘーゲルは『精神現象学』「絶対知」で述べている。すなわち「自己意識は、自分が外化したものをとりもどす、したがって、その他在のなかでおのれのもとにある」との言い方で述べていますが。そこで肝心なのは意識の対象性を克服することであり、精神がそれをとりもどす運動だ、と。
この「対象化したものをとりもどす運動」いうのは弁証法の中味であり、それを表現した一つの形ですが。ことをマルクスも確認・評価していて、『経済学哲学手稿』「ヘーゲル哲学批判」は、その主張の中にある一面的な面、誤りを析出することで、唯物弁証法を明確にしようとしているわけです。
これって、弁証法の内容であり、最初にヘーゲルが『精神現象学』で、彼の言い方で哲学として、抽象的にではありますが、歴史上最初にはっきりと展開したことです。
『歴史哲学』では、大きく人間がつくりだした世界について、世界史の発展・あゆみについて、この具体的領域において論じていたわけで、それを私などは『歴史のなかの弁証法』でさぐった次第です。 (2024年05月17日 18時22分10秒)


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