カテゴリ:1歳日記(まーや編)
![]() (週末にL'abbazia di Pragliaと言うところに行ってきました。中庭の回廊が素敵です。) 14ヶ月に入ったまーやは人の指示に従うことができるようになった。 この指示とはやっちゃいけないことを『やってはダメ!』と言う指示に従うのではなく、あくまでも『あれ持ってきてくれる?』『何々してくれる?』と言う頼みごとについての話である。 我が家はまーやが生まれた時からダーリンはイタリア語で、そして私は日本語で話しかけている。 『子どもが生まれたらそれぞれの母国語のみで育てる』と言うのは子どもが出来る前からダーリンと話し合って決めていた事だったが、いざ生まれてみるとこんな簡単そうなことが結構難しい。 私達が住んでいるのはイタリアなのでイタリア人であるダーリンがイタリア語を話すのは全く問題ない話だが、日本人である私が日本語のみで通そうとすると時々摩擦がある。 それはダーリンの家族の集まりに私がまーやに日本語で話しかけて、『何を言っているのかわからない』と言われた時だったり、公園でイタリア人の子どもと接するまーやに日本語で話しかけるとイタリア人の子どもは『何を言っているんだろう?』と不思議そうな顔で私を見る時だったり、まあ母国で子育てが出来ないと言うのは不自由な面もあるものだ。 一時期周りのイタリア人が私の話しかけていることが理解できないと申し訳ないから、と言う理由でまーやに日本語とイタリア語の両方で話しかけていたことがあった。 でもそれはすぐにやめ、今度は徹底的に日本語のみで話しかけるようにし、今でもそれを続行している。 実は保健所のドクターをはじめ私のかかりつけの産婦人科医など、時々周りには 「あなたがイタリア語で話さないとこの子が学校にあがった時にイタリア語が不自由になりかわいそうだ。」 と言う人がいるのだが、その意見も無視して『日本語オンリーで育てる』徹底さを決断した訳は私の友人の話しにある。 彼女の話しでは、子どもと言うのは別々の言語という区別が当然できないのでこの人にはこう言えば伝わると判断しながら成長をするそうで、1人の人が複数の言語で話しかけると頭の中が混乱してしまい上手く使い分けが出来なくなってしまう、と言うことだ。 この話がまーやに対して有効かどうかは数年経つまでわからないが、数年後私に向かってイタリア語で話しかけてくるようにならない事を願いたい。 さて、自分で話すことはまだまだのまーやだがダーリンと私がする指示には理解力を示すようになっている。 例えば私が日本語で 「まーやのハンカチはどこにあるの?」 と聞くと、自分の周りをきょろきょろと探し自分のハンカチを探し出しては私に見せに来る。 「このチーズをパパに持っていってくれる?」 と頼むと、きちんとチーズをパパに渡しに行くのである。 反対にダーリンが何か頼みごとをイタリア語ですると、それに対しても正確に動く。 そこにまだ耳にしたことがない新しい単語が出てくると、なんだかよくわからないと言った「?」の顔をするが、少しずつ私達が日常で使う単語は2ヶ国語とも理解できているようだ。 子どもの頭って本当にスポンジみたいに何でも吸収するんだなあと感心すると共に、成長が嬉しい。 後は、泣いている時だけじゃなくて普通の時に 「マンマ」 って呼んでくれないかしら? まーやから 「マンマ、あのね、」 と言われる日を楽しみに待っているのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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