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先日、文化というのは、”おくるみ” のようなものであると書いた。 つまりそれに包まれていると安心できるからという理由である。 宗教・絵画・音楽・伝統芸能・言語・風俗・習慣・街並みに至るまで。 外国から帰国するとホッとするのはそうした日本独特のものに浸れる からである。 さて文化についてもっと敷衍してみる。 「孟子」 に、”木に縁(よ)りて魚を求む” という比喩がある。 これは木に登って魚をとるようなもの、という意味であるが孟子が 意図したことと現代では違って、木と魚は因縁が深いというべきだ。 例えば三陸の養殖牡蠣が痩せて不審に思った人が海に注ぐ河川 に沿う樹木を切りすぎているのに気づく。 そして山に植林を始め たのである。 その結果木が育つにつれて牡蠣の実入りがよくなっ たという話。 つまり樹木が媒介するプランクトンが河川から海へ 流れ込みそれを牡蠣が栄養として摂取しているのである。 沖縄など亜熱帯地方の海岸のマングローブもそうだ。 魚に日よけを つくりプランクトンを発生させて魚を育てるのである。 沈没した廃船とか大陸棚とか人工的に漁礁を作ってやったり魚たちを 海藻などでくるんでやっている。 人間の文化というのもそういうものだ。 包まれて安らいでいる。 暮れにベートーベンの第九を聴くと、うわ~、いいなあと思うし、奈良 や京都で古刹の仏像を見ると心落ち着き、何やら分からんまでも荘厳 な気に触れるだろう。 近頃は海外の美術館から著名な画家の作品も 見る機会もある。 海老蔵は別にしても歌舞伎もある、文楽もある、 そうした日本古来の伝統芸能の雰囲気に浸るだけでも人間ちったぁ~ ああ、オレも日本人だなぁ~って、いいと思わないかい? 人間、カネ、カネを追ってムラカミやホリエの様に、”カネ儲けが何で いかんのですか” って。 いかんとは言わないがそれが目的化するの がいかんのである。 人生80年か、この間に密度の濃い、質の高い文化 をどれだけ感得できるかがカネ儲けより大切ではないのか? 今はお店で買い物をすると刺身でも煮物・フライものも器に盛ってある から買って帰りそのまま食卓に並べて食べられる。 けど、魯山人と迄 いかなくとも自分の気に入った器に移して食するとどれだけいいか! ちょっと値は張るがウエッジウッドかロイヤルコペンハーゲンの コーヒーカップでたまには美味しいコーヒーが更に美味しく頂ける と思いませんか? バカラのグラスで飲むサントリーレッドの水割りもオールドパーに 変身するのではありませんか? 狭いニジリ口をくぐり茶室に入り利休もどきの一輪挿しを見ながら オウスを頂き、懐紙で飲み口をぬぐったり茶菓を上品そうに頂いて みたいとは思いませんか? 恥ずかしいとも思わず電車の中で化粧したり、道路を歩きながら飲食 したり、アメリカの礼儀のれの字もない習慣を真似て平気な若者達。 最早日本人ではない無国籍人としか思えない人種が増えてきた。 そしてむしろ日本文化に憧れて日本に住みつく西欧人ほど、より日本 文化の継承者としてふさわしいと思うのであるがいかがなものか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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