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ショーン007aの日記

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2016年02月11日
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カテゴリ:読書

原文:http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=14552

和訳文

ビルダーバーグ会議と欧州連合プロジェクト

 1954年、 オランダでビルダーバーグ会議が設立された。年に一度、秘密裏に開かれるこの会議には、130人ほどの政界、金融界、軍事、学術界、メディアのエリ-ト が、北米と西欧から集まる。これは「プライベートで互いに相談し合っている、影響力ある人々による私的ネットワーク」のようである。[1] 常連の参加者は、世界的大手企業のCEOや社長であり、石油会社(ロイヤルダッチシェル、ブリティッシュペトロレウム、トータル社など)や欧州諸国の君主、デイビッド・ロックフェラーら世界的な銀行家や、大物政治家、大統領、首相、そして世界の中央銀行家たちである。[2] 

 ビルダーバーグ会議の創設者であるジョセフ・レティンガーは、ヨーロッパ共同市場の初期創設者のうちの一人でもあり、欧州統合において最も優れた先導者であった。1946年、 レティンガーは王立国際問題研究所(CFRの英国におけるカウンターパート、姉妹組織)に、欧州諸国は「主権の一部を放棄」して同盟を作る必要があると話 し、これを働きかける組織として欧州運動(EM)を創設した。レティンガーによるEMの財源支援は、CFRやロックフェラーなどの強力な金融関係者により 保証されていた。[3] しかしながら、CFRとロックフェラーを区別するのは難しい。特に第二次世界大戦のあと、CFRの主たる財源の出所は、カーネギー社、フォード財団、そして、とりわけロックフェラー財団であるからだ。[4] 


 ビルダーバーグ会議は「秘密のグローバル・シンクタンク」のような働きをし、当初の意図は「冷戦中に欧州と北米の政府と経済を結ぶこと」であった。[5]  そして欧州全体を連合して統合させる事は、会議の一つの大きな目標であった。ビルダーバーグと欧州運動の創設者であるレティンガーはさておき、欧州統合の 他のイデオロギー創始者は、統合を促進させるための組織「欧州合衆国活動委員会」の創始者のジャン・モネである。またジャンは力ある推進者であり、欧州共 同市場の前身である欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の初代委員長であった。[6]


  ある機密扱いから外された文書(2001年に公開)には、「米国諜報機関関係者は195060年代に欧州統合に向けた活動にはずみをつけ欧州の連邦主義者たちの運動に資金援助し、指図した。」[7]、と記されている。またこの文書は「アメリカは舞台裏で積極的に英国のヨーロッパ政府への参加を後押ししていた。日付が1950年 7月26日と書かれたあるメモでは、本格的な欧州議会についての促進運動の指示がある。それにはCIAの前身である、戦時下の戦略諜報局(OSS)のトッ プ、ジェン・ウィリアム・J・ドノヴァンの署名がある」と明らかにされている。さらに「欧州連合のアジェンダを形作るために使われたのは、1948年に創設されたワシントンの『欧州合衆国のための米国議会(ACUE)』である。その議長はドノヴァンで、そのとき表向きは民間の弁護士だった。」 そして、「議長代理はアレン・ダレス、1950年代のCIA長官だ。議会のメンバーにはCIA初代長官ウォルター・ベデル・スミスが含まれ、戦略情報局を退職した人物や、CIAに 入ったり出たりした官僚の名簿もある。この文書は、ACUEが戦後時に最も重要な連邦主義者組織であるEMに融資したことを示している。」 面白いこと に、「EMの指導者たち、すなわち、レティンガー、空想家のロベール・シューマン、前ベルギー首相ポール=アンリ・スパークは、米国のスポンサーの雇われ 人と看做されていた。アメリカの役割は秘匿されていた。ACUEの資金援助は、米国政府と綿密な関係を持つ企業からだけではなくフォード社とロックフェ ラー財団からも来ていた。」[8]

 1951年、ECSCはフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、ルクセンブルグとオランダにより創られた。新たに公開された1955年 のビルダーバーグ会議についての文書によると、主な議題は「欧州連合」のことであり「ECSCの6カ国の代表が交わした議論では、統合と統一の考えに対す る完全な支持をあらわした」という。くわえて「ヨーロッパの参加者は、共通通貨の必要性について言及し、彼の意見では、この必要性は中心的な政治的権威の 創設を示唆していると述べた」という。 興味深いことに「アメリカ合衆国の参加者の一人は、統合に対する支持の熱烈さをどのように表すべきかということに おいてアメリカ内で相当な意見の相違はあったけれども、アメリカが統合に対する熱烈な支持を弱めなかったことは確かだと述べた。もう一人のアメリカの参加 者は、彼のヨーロッパの友人に、イデオロギー上の問題を余り強調しないで、取り分け現実的に早く欧州の統合に向けて動くよう訴えていた。」[9] このように1955年のビルダーバーグ会議は、ヨーロッパ共通市場の設立という主要なアジェンダを固めた。[10]

 2年後の1957年、ローマ条約が調印され、欧州経済共同体(ECC)、別名欧州共同体(EC)が創られた。数十年にわたり様々な条約が結ばれ、より多くの国がECに加わった。1992年にマーストリヒト条約が調印され、欧州連合(EU)と共通通貨ユーロがつくられた。欧州通貨機構(EMI)は94年に創設され、ヨーロッパ中央銀行は98年に設立され、ユーロは翌年99年に流通した。 エティエンヌ・ダヴィニョン子爵(ビルダーバーグ会議長で前EU理事)は2009年3月に、ユーロはビルダーバーグ会議で討議され計画されたものだと明らかにしている。[11] これは、世界中の地域を統合するというブロック化の一例であり、それは全大陸地域を一つの大きな超国家的構造にするためのものである。これはビルダーバーグ会議の主要な役割の一つであり、本会議は他の国際的な問題においても重要な役割を演じることになろう。

相互依存論

 統合とブロック化を理論上正当化する学説として、相互依存論が1960年代に知られることになった。その主要な支持者の一人はリチャード・N・クーパーであり、他の二人として、ロバート・コーエンおよびジョセフ・ナイがあげられる。相互依存論およびその理論家たちは、ケインズによって提起された考えを大いに拡張している。

 リチャード・クーパーは、60年 代は工業国間で経済的相互依存性が強い傾向にあり、この成長する相互依存関係は、国家の経済目的の希求を、より難しくさせるものであると記述している。さ らにクーパーは「より大きな経済統合の目的のためには、各国の経済的目的追求のために国家のその筋が利用可能な政策手段の数を減らすような国際的な協定が 必要である」[12]と述べている。更に。「クーパーは前例のない国際的な相互依存状態に向けて、新しい政策が必要であると主張した。」[13]

 またクーパー は、諸国が経済目標の保障のために重商主義者的追求へ回帰することに反対し、「経済的な国家主義は、破滅へ導く政策競争を引き起こす」と論じている。そし て、「国際的な政策の調整は事実上、国同士が相互に頼りあう世界の中で、国家経済の目標を達成させる唯一の手段である」と結論している。[14]

 コーエンとナ イは相互依存関係について更なる分析を行っている。特に相互依存関係が国際的政策をどのように変えるかに焦点を当てている。彼らは、重商主義者と同様に世 界を本質的に無政府状態のように眺める国際関係現実派にイデオロギー的に対立する概念を形作っている傾向にある。コーエンとナイは「複雑な相互関係」論を つくりだし、現実主義を批判した。彼らの現実主義の分析は二つの主要な側面からなる。: 国家とは世界の舞台で演技する主役であり、軍事力は国際的な権力 の中核である。そして彼らは次のように論じている。「世界経済の相互依存性はこれらの仮説に疑いを投げかける。経済統合により生まれた多国籍企業及び組織 が、グローバルな影響力において、国家と今や競い合っている。」[15] 

 コーエンとナイは相互 依存性の政治問題における国際的な管理体制の妥当性と重要性についても議論している。彼らは。その管理体制を、「行動を調整するための法律、基準、および 手続きのネットワーク」と定義している。彼らは次のように論じている。「管理体制は国家間の力の分布に影響されるが、その体制は逆に、国家間の交渉プロセ スに決定的に影響し得る。」[16] またこれは、国際社会がカオスの一つであるという現実主義者と重商主義者の考え方に意義を唱えているものである。というのは、管理体制が国際的な舞台内に秩序を作り維持し得るからである。


 相互依存論者は、相互依存性が協調と 相互利益という点で世界秩序を変えたと論じる傾向にある。カオスでない協調的な国際秩序によって、全ての国家が相互利益を求め獲得するという自由主義経済 の考え方を支持している。究極的に、それはグローバルな経済統合の継続しているプロセスを正当化している。それに対して、相互依存論者が異議を唱え、論争 している相手方である現実主義者と重商主義者は、本質的にカオスであると述べている見地において、国際的舞台での実力行使を正当化している。理論上、重商 主義と自由主義は対立しているが、相容れない訳ではない。事実、互いに強化しあっているのだ。1970年代に起こった出来事は、国家の役割に関する重商主義者の振る舞いの相互強化的特徴、および自由主義経済秩序の「相互依存性」をはっきりと示している例である。

 初期の重商主義者、フレデリック・リストは統合と連合に関して次のように書いている。「歴史上のすべての事例は、政治的連合が主導権を握っていて、商業的連合はそれに追従するというものである。後者が主導を握った例はなく、前者が後者から出現してきた。」[17]  20世紀に、エリート達はあまり踏み固められていない方法をとったように思われる。ビルダーバーグ会議は、商業的連合を先に進ませ、政治的連合を後に続か せることによって、欧州の統合と連合を追求したように見える。このコンセプトは、グローバルな経済統合に焦点を当てた相互依存論の考え方においても明らか である。その考え方は、現実主義と重商主義のカオス的世界秩序という考えとは異なり、国家と他の関係者がそのような経済的結び付きを通してより協力的にな るというものである。

 

三極委員会


 1960年 代後期に、西欧の経済(特に西ドイツ)と日本経済は急速に発展し拡大した。彼らの通貨は、ブレットンウッズ・システムにより金の価格に固定していた米ドル に対して上がっていった。金価格は、米ドルがベースの国際通貨システムであるIMFを通じて固定されていた。しかし、「60年代の西ドイツと日本の成長で、そのシステムは国際為替の媒介や金の監督代理としての機能を既に期待できないものとなっていた。」それでもなお、その巨大な帝国を維持するため、合衆国は大きな国際収支の赤字を膨らませた。[18]

 リチャード・ニクソンは決意する。それは、「保護貿易主義」的な対策と多くの人々が言及するところのものである。1971年、金と米ドルとの繋がりは終わりを迎えた。その結果、「米ドルの切り下げが生じ、対他国通貨との為替変動が始まった。」 そして「合衆国経済の競合性が取り戻された」[19]  平価切り下げによって、「アメリカ製商品は外国人にとってより安くなり、外国製品の競争力はアメリカ市場で弱体化した。」 ニクソンの起こした第二の大き な行為は、海外との経済競争の上で、アメリカ製造業界に利益をもたらした「米国への輸入税の10%上乗せ」である。これによりアジアからアメリカへの輸入 が減少し、アメリカ製品がより競争可能な価格でアメリカ市場で売られるようになった。そして日本、ECCへ、アメリカ製品に対する貿易障壁を緩和するよう 圧迫した。[20]

 CFRの発行する外交誌「フォーリン・アフェアーズ」に、外交についてのある記事がある。それはニクソンの「保護貿易主義者」としての新経済政策を「破滅を招く孤立主義者的趨勢」を促進するとしていて、[21] また、ニクソンは、「世界経済がその円滑な役割に依存している全体的な国際通貨制度のくさび」を粉々にしたとしている。[22]  またフォーリン・アフェアーズ誌の他の記事は、次のように説明している。アメリカの大陸主義者あるいは国際主義者のエリート派閥が、特にニクソンの新経済 政策で当惑させられたが、彼らは「その判断に同意した。:経済力の相対的なバランスは大きく変化していたため、アメリカはもはや経済的主導権を牛耳れなく なっていた。しかし、彼らはアメリカ一国主義を続けると、全ての西欧経済を悪化させたままにする防衛反応のスパイラルを燃え立たせるであろうと、論じてい た。その代わりとして彼らの提案した救済方法は三極[北米、欧州、日本]政府の間での遥かにもっと広範囲での調整であった。」[23]

ア メリカの支配階級には、ブレットンウッド協定には変更が必要であるという意見の一致があった。しかしそれを、どう変更するかという点で、メンバー内で意見 が割れていた。より強力な(そして裕福な)国際的勢力は、どのようにアメリカの政策が孤立化し、西欧および日本から疎遠になるかを恐れた。そして彼らは、 「アメリカの世界経済での役割は、成長する欧州および日本と調和させられねばならない。それには国際通貨システムの抜本的改革が必要である。世界の貿易障 壁を低くするための一新された努力が必要である。アメリカの基調国際収支は悪化している。」と主張した。しかしながら、ニクソンは「行き過ぎた」政策を採 用し、欧州と日本を疎遠にした。

 1970年、デイビッド・ロックフェラーはCFR会長となったが、同時にチェース・マンハッタン銀行の頭取でCEOでもあった。1965年にCFR会員となった学者が、「二つの時代のの間:情報化時代のアメリカの役割」という本を、この1970年 に書いている。その著者ズビグネフ・ブレジンスキーは、欧州、アメリカ、日本からなる「先進国共同体(CDN)」の必要性を説いている。ブレジンスキー は、どのように「国家の伝統的統治権が、超国家的権力―すなわち、グローバルな政策を形作ることにおいて大きな役割を演じている多国籍企業、銀行、国際組 織―によって徐々に崩壊するか」について書いている。デイビッド・ロックフェラーはブレジンスキーの著書に注目し、ニクソンの経済ショックの結果としての 「アメリカ、欧州、および日本の間の関係悪化を懸念」していた。 1972年 に、ロックフェラーとブレジンスキーは、「年次ビルダーバーグ会議にて三極委員会草案を発表した。」 同年7月に17人の力ある人々がニューヨークのロッ クフェラー邸に集まり、この委員会設立を計画した。またその会議には、ブレジンスキー、フォード財団理事のマクジョージ・バンディ(フォーリン・アフェ アーズ誌編集者であるウィリアム・バンディの兄弟)、そしてCFR理事バイレス・マニングが参加していた。[24] こうして、1973年に、三極委員会はこれらの問題に対応するため設立された。

 1976年のフォーリン・アフェアーズ誌の記事によれば、「70年代初期、言語的表現としての三極主義および三極委員会が、アメリカ外交政策共同体のうちの汎大西洋主義により執着する一部の人々の、ニクソン政府の対外経済政策を特徴付ける好戦的で防御的な単独主義に対する反発から生まれた。」[25]とされている。 委員会の主たる関心は、「工業化社会」を保持することにあったが、言い換えれば三極国家のための相互利益を求め、「より貧しい国々の必要性と需要への共通のアプローチ」を構築をすることであった。しかしながら、これは「より貧しい国々[に対処するための]共通のアプローチの構築としてと読むべきだろう。これと同様に、委員会は「核拡散、テロ、ハイジャックのような高度に政治化された問題、および中東や南アのような高度に政治化された地理的分野の調整」を引き受けるのであろう。[26]

 興味深いことに、相互依存性理論学者ジョセフ・ナイは、リチャード・N・クーパーと同様、三極委員会のメンバーである[27]。 今日、ジョセフ・ナイはCFR取締役会のメンバーであり[28]、リチャード・N・クーパーは1993年~1994年までの間、CFRの理事であった。[29]

  金本位制の終焉は次のことを意味した。「アメリカは金あるいは他の何に対しても、ドルの一定の額面価値を維持しようと努めなければならないという規律に服 従しなくなった。:それは、アメリカ財務省(最終的にはFRB)が望むように、そして国際的な通貨問題からの金の除外に向けるように、ドルを動かすことが できた。」 これが金本位制に対抗するドル基軸を作り出し、「世界通貨政策の管理を単一の国の手に委ねる」ことになったが、「欧州と日本には受け入れられ なかった。」[30] この問題への対応が、三極委員会創設の隠された理由の一つであった。

 

 

オイル危機

 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)による急激な原油価格上昇が起こる5ヶ月前の、1973年5月にビルダーバーグ会議が開かれた。しかし、リークされた会議録によると、400%増のオイル価格が議論されたもので、しかも参加者は「作られてあふれ出そうとしているオイルダラーをどう運用するか」という計画を作っていた。[31]  オイルは、ビルダーバーグ会議関係者にとって無縁の問題ではない。というのは、73年のビルダーバーグ会議の参加者は、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリ ティッシュペトロリアム(BP)、トータルSA、ENI、エクソンのCEOら、およびエドモンド・デ・ロスチャイルド爵、デイビッド・ロックフェラー、当 時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーといった重要な銀行家と個人であったからである。[32]

 1955年、当時若い学者であったヘンリー・キッシンジャーはCFRに連れてこられた。そこで彼は一人の有名なメンバーとなり、ネルソン・ロックフェラーのプロテジェ(訳注:メンタリングと呼ばれる育成方法で、被育成者がプロテジェ、指導者はメンターという)になった。1969年、キッシンジャーは、リチャード・ニクソン政権時の国家安全保障顧問に就く。[33] 特に中東において国際情勢が不安定な中でこの年のビルダーバーグ会議は開かれた。


 安保顧問としてのキッシンジャーは、外交政策についてウィリアム・ロジャース国務長官と権力闘争の中にあった。ニクソンさえこの絶え間ない闘争について言及し、「ヘンリーの性格上の問題を取り扱うのは非常に難しい」と言っている。また、キッシンジャーは「[国務長官のウィリアム・]ロ ジャースをやり込めようと努めることにおいて、精神異常者的」であるとも言っている。ニクソンは、もしキッシンジャーがロジャース相手に勝ったならば、彼 は「独裁者」になっていただろうとさえ言っている。ニクソンは彼の参謀であるハルデマンに、キッシンジャーは「私が誰か重要人物に会うたびに、彼が居合わ せているに違いない。」と思っていると話した。[34]

 第四時中東戦争時、ニクソンは、ウォーターゲート事件が発覚するという国内の重大な問題を抱えていて、「大統領はひどく心を痛め、自己嫌悪と酒により時々無力になった」。その結果、キッシンジャーの権力および影響力が増加した。」[35] 1970年まで、キッシンジャーはロジャースにベトナム戦争の間、「東南アジアについての政策立案を凍結」させたため、ロジャースは「中東に焦点を当てた」。それからニクソンとロジャースは辞任し、キッシンジャーが国家安全保障顧問と国務長官の両方の座に就いた。
[36]

 キッシンジャーが後に三極委員会創設25周年のスピーチで述べたように「私が国務長官を務めた1973年 のある日、デイビッド・ロックフェラーが私のオフィスを訪れ、そして私が少し助けを必要としていると思っていると話しかけた」という。そして「デイビッド の存在は私たちの世界では、大きな役割と認知されていた。障壁を乗り越える上で、うまく算段できる人を見つけ、卓越した繊細さでもってそれを実行する。」  またキッシンジャーはスピーチの最後にこう述べた。「デイビッド、あなたが三極委員会で成し遂げてきたことに対し尊敬し、賞賛します。あなたと一族は、 この国で何が上流階級に通用するかを示したのです。それを具体的に可能にするだけではなく、あなた自身が加わって、それに熱意を注ぐという義務感、潔白 さ、信念・・・まさそれはあなた自身です。言ってしまえば、ロックフェラー一族がそうなのでしょう。」
[37]

 キッシンジャーは、エジプトのアンワル・サダト大統領とのロジャーズの和平交渉を妨害した。サダトはその当時、イスラエルに対して他のアラブのリーダーを集結しようとしていたのである。1972年に、サウジアラビアのファイサル王は、「石油が政治的武器として使われてはならない」と主張していた。しかし、「1973年、 ファイサルは原油禁輸について考えを変えようとしていると発表した。」ファイサルは西側諸国の石油企業経営陣と会談を開き、彼らに警告した。サダトはファ イサルにイスラエルを攻撃する計画について話し、そしてファイサルは財政的に、そして石油攻勢で支援することに同意した。数日後、サウジアラビアの石油相 シェイク・アフマド・ヤマニは、「アメリカ合衆国に影響を及ぼす生産面の削減について、石油企業にヒントを与え始めた。」 ヤマニは、ヘンリー・キッシン ジャーが「ファイサルの意図の重要性について、ニクソン大統領を誤解させている」と言った。
[38]

 104日、米国国家安全保障局(NSA)は、「疑惑の域を越えて、イスラエルでの攻撃が106日の午後に始まることを確認していた。」しかしニクソン政権ホワイトハウスはNSAにこの情報について、アメリカが攻撃の数時間前にイスラエルに警告するまで、「押さえておくようにNASAに命じていた。」 「ニクソンの周囲の者は少なくとも2日前に警告ができた」[39]に もかかわらずである。 シリヤとエジプトによるイスラエル攻撃の数時間前、アメリカはイスラエルのカウンターパートに警告していた。しかしながら、「ホワ イトハウスは、イスラエルが何もしなかったと主張した。先制攻撃をしなかったし、最初の一撃もなかったと主張した。 もしイスラエルがアメリカの支援を望 んだとしても、アラブが侵略するまでは、戦時体制を開始することさえ出来ない、とキッシンジャーは警告した。」イスラエル首相ゴルダメイアはイスラエル防 衛線を下げたことについて、「キッシンジャーの恐ろしさが一番の理由だ"と言った。興味深いことに、キッシンジャー自身は攻撃の日にオフィスにいなかった。彼は数日前にそれがいつ起こるかを知っていたけれども、彼はニューヨークのウォルドルフ=アストリアホテルへ出かけていた。さらに、彼は国連安保理事会を召集するのを故意に3日間遅らせた。[40] キッシンジャーの裏の外交策でもって、その攻撃は進められるようになっていた。


 第四次中東戦争(ヨムキプール戦争)が勃発した1973年 10月6日、キッシンジャーは「危機の支配権を彼の手の内に集中させた。」 イスラエルがホワイトハウスへ攻撃開始を知らせた後、キッシンジャーは、フロ リダで静養していたニクソンに意見を聞かないどころか、3時間も何も知らせなかった。数時間後、ニクソンに知らせた後、キッシンジャーは彼にこう告げた。 「我々はここでそれを完全に支配している。」そして、「大統領は問題をキッシンジャーの手に委ねた。」アレキサンダー・ヘイグ(国家安全保障会議における キッシンジャーの以前のナンバー・ツーで、その後、ニクソン政権の参謀長)は、その朝大統領と一緒に居た。ヘイグはキッシンジャーに、「ニクソンはそのと きワシントンに戻ることを考えていた。しかしキッシンジャーがそれを阻んだ。ニクソンを外そうとする繰り返されたパターンの一部である。」と話した。3日 間、「その戦争についてのイスラエルとソビエトとの外交上のやり取りを監督した」のは、キッシンジャーであった。「不足し始めていた軍用品に対する、イス ラエル首相ゴルダメイアからの要請は、ニクソンにでなくキッシンジャーに来ていた。」10月11日、英国の首相がニクソンと話すことを求めて電話したが、 それに対してキッシンジャーが、「我々が彼らにノーと言えますか? 私が大統領に話したとき、彼は酔っ払っていました。」と応答した。 しかし、英国民 は、「首相はキッシンジャーと話すことが出来た。」と知らされた。[41]

 10月12日、アメリカの石油メジャーが、アラブ諸国は「若干の価格上昇を受けるべき」と提案するため、ニクソンに手紙を送っている。そして、ニクソンはキッシンジャーのアドバイスに従い、軍をイスラエルへ送り、アラブのOPEC諸国が16日に70%原油価格を引き上げるのを発表すること、および17日にアメリカへの石油禁輸を発表することを促進した。[42] 

 5ヶ月前のビルダーバーグ会議参加者がこの「オイルマネーの氾濫への対応」計画に関与しており、またこの会議で、OPEC中 東の原油歳入の400%以上の上昇が予期されていた。この会議の文書には「エネルギー輸入国の関係を改善するためには、欧州、アメリカ、日本との間での協 議を始めるべきだ。世界のエネルギー消費60%を占めるこの3つの地域は、エネルギー商品の貿易においてはそれ以上多く、世界のエネルギー輸出額の80% を占めている」と述べられている。 同じ文書では、「エネルギー危機もしくはエネルギーコスト上昇は、資源を持たない発展途上国の景気拡大を致命的に妨げ る。」 そして、「石油産出国の金融資源の誤用および不正支配は、世界通貨システムを激しく混乱させて、その土台を壊す」とある。[43]

 経済学者のF.ウィリアム・エンダールが彼の著書「戦争の世紀」に記しているが、「起ころうとしているOPEC原 油価格の400%上昇の一つの大きな結末は、英国石油、ロイヤルダッチ・シェル(両者ともビルダーバーグ会議参加)と他のアングロアメリカン石油会社によ る、一か八かの北海油田への何億ドルもの投資が、原油を生産して利益を生むことを可能にするということである。」つまり、「新しい北海油田の収益性は、OPECによる価格吊り上げ後までは全く確実なものでなかったということである。」[44] 2001年、サウジアラビアのOPEC前代表シャイク・アフマド・ヤマニ(Sheik Ahmed Yamani)は、「私は、アメリカ人がこの原油価格上昇の背後にいることを100%確信している。石油企業は当時、真にトラブルの中にいて、多くの借入をし、それをやりくりするために原油価格を高騰させる必要があったのだ。」 1974年、ファイサル王により彼がイラン国王のところへ派遣された時、イラン国王は、原油価格を吊り上げたかったのはヘンリー・キッシンジャーだと言った。[45]

 国際平和カーネギー基金により発行される「フォーリン・ポリシー」誌のある記事によると、「1971年から、アメリカは中東石油産出国を後押しして原油価格を上昇させ、それを維持させている」ということが、徹底的な研究により結論付けられている。この結論は、米国務省の文書、議会の証言や政策にかかわった者たちのインタビューに基づいている。[46] 1972年の第8回 アラブ石油同盟会議で、ジェームス・エーキンス(米国務省燃料及びエネルギー担当代表)はスピーチをし、原油価格は「アラブの石油の短期間代替品がないた め、価格は著しく上昇すると予期される」と述べ、これは「不可避の方向」であると云った。その会議における西洋側のオブザーバーは、エーキンスのスピーチ は本質的に「アラブ諸国が原油価格を1バレル当たり5ドルまで上げる事を擁護」していると言った。石油工業それ自身も、彼らの立場において、より一体となっていた。米国石油評議会(NPC)、「すなわち、石油工業財閥を代表する政府諮問機関は、原油および天然ガスの価格を2倍にさせる一連の膨大な量の研究が公になる前に、ニクソンが安全に再選されるのを待っていた。」[47]

 1973年、ヨム・キプール戦争前の夏、ジェームス・エーキンズは在サウジアラビア米国大使になった。彼もまたたまたまCRFのメンバーである。[48] サウジアラビア石油相およびOPEC代表シェイク・アフマド・ヤマニは同年2月にこう述べている。「原油価格上昇は、石油企業の利益のために行われた。彼らの利益は生産ステージで徴収される。」 また、それはアメリカの利益のためでもあって、OPECの莫大に増えた歳入は、恐らくそのアメリカに投資されるであろう。[49]

 石油企業それ自身は、OPECにおける彼らのビジネス設備が国営化されることを恐れていた。それで、彼らは「現状維持することで彼らに利益を与えるため、OPEC諸国をアメリカの石油ビジネスに携わらせることを恐れた。」 開戦の数週間前、キッシンジャーをトップとする国家安全保障会議(NSC)は、中東戦争への軍事介入は「違法と判断される"という声明を出した。[50]

 在サウジアラビア米国大使ジェームス・エーキンズは、1975年にサウジアラビア人が原油価格を引き下げさせようとしてイラン国王を訪ねたとき、キッシンジャーがイラン人に「アメリカは、イランの原油価格上昇への欲求を理解している」と述べたと言われたと、議会で証言している。[51] エーキンは、「国務長官ヘンリー・キッシンジャーとの政策論議のあと」で、1975年にサウジアラビアから解任された。[52]

 OPEC原油価格上昇は、様々なことを生み出した。アメリカ内での「対外投資の源泉徴収税の廃止」や「イランとサウジアラビアへの検査されない武器取引き(米の支援担当者なしでは取り扱えない)」、「アメリカの銀行に貯蓄されているOPEC資金のデータ公表の抑制」など。[53]  最終的に、原油価格上昇は、「アメリカに競争上の優位をもたらすであろう。なぜなら欧州や日本への経済的ダメージがより大きいからである。」興味深いこと に、「オイルマネー吸い取りプログラムそのものが、高騰した原油の対価を支払うために、アメリカと諸外国の資金の流れを持続させるという弁明になってい る。事実、アメリカでの投資家、ビジネスマン、また輸出業者らの圧力団体は、合衆国で成長していて、OPEC諸国を贔屓するように仕向けた。」アメリカ国外では、高価格原油政策は、欧州、日本、および発展途上の世界を痛めつける狙いがあるということが、「広く信じられて」いる。[54] そこにはまた、「アメリカ国際石油政策の作成に関与」した「石油工業からのインプット」も存在していた。[55]

 1974年に、ホワイトハウスの官僚がOPECに原油価格を下げさせるよう財務省に提案した時、彼のアイデアは払いのけられた。彼がのちに述べたところでは、「この助言を一掃し、高い原油価格に順応するための還流プログラムをせがんだのは、銀行のリーダーたちであった。」 1975年ウォール街の投資銀行家は、サウジアラビア通貨庁(SAMA)の投資アドバイザーになるように現地へ送られた。そして、「彼はサウジアラビアのオイルマネー投資を正しい銀行で行うように、つまりロンドンとニューヨークの銀行にするよう導いていた」[56] 

 1974年、イランのテヘランでの会議の結果、100%以上の更なるOPEC原 油価格上昇が取り決められた。これを発案したのは、数ヶ月前には先の値上げに反対であったイラン国王であった。サウジアラビアの石油相シェイク・ヤマニ は、イラン国王の驚くべき値上げ決断のあと、彼との面会に赴いた。ヤマニは、より高い価格が合衆国を疎遠にするであろうとこを心配したサウジ王ファイサル によって派遣されたのである。イラン国王はヤマニに次のように言った。「なぜ値上げに反対しなかったのかだって?それが彼らの望むことじゃないのかね?― ヘンリー・キッシンジャーに聞いてみるがいい。彼がより高い価格を望んでいるうちの一人だ。」[57]
 
  「グローバル化というギャンブル」の中でピーター・ゴーワンは、「原油価格上昇は、産油国に対するアメリカの影響の結果であり、西欧と日本におけるアメリ カの『協力者』に向けられた経済的な政治手腕の行使として、その価格上昇はある程度、取り決められたものであった。そして、原油価格上昇に関するニクソン 政権政策の別の面は、その価格上昇を通して、国際的な金融関係においてアメリカの民間銀行に新しい役割を与えたことであった」と述べている。 彼はまた、 ニクソン政権はヨム・キプール戦争の2年前から原油価格上昇政策を練っていた、と説明している。そして、「OPECが最終的に米国のアドバイスを受けて、原油価格を引き上げたときに、すなわち、早くも1972年に、ニクソン政権はアメリカ民間銀行のためにオイルダラーを還流することを計画していた。」という。[58]  最終的にその価格上昇は、急激な経済成長を遂げていたけれども、中東の石油への依存度が高かった西欧と日本に破壊的な影響を及ぼした。これは、自由主義の 国際的な経済秩序を擁護する一方で、権力と影響力を増強することを通して競合者から奪い取る重商主義者のように振る舞う米国のやり方の一例である。

 1973年 に、デイビッド・ロックフェラーは、日本、西欧と北アメリカ(すなわち、米国)間の調整と協力を促進するために三極委員会を設立した。けれども、その同じ 年に、彼の親友・腹心であるキッシンジャーは日本と西欧に有害な影響を及ぼした原油価格上昇を促進・調整するための重要な役割を演じた。また注目すべきこ とであるが、デイビッド・ロックフェラーのチェースマンハッタン銀行(当時彼はそのCEO)は、キッシンジャーによって促進されるオイルダラー還流システムで莫大な利益を得た。そのシステムにおいて、OPEC諸国はロンドンとニューヨークの銀行を通じて、アメリカ経済に新しい過剰な資本を再投資していた。


 一見正反対に見えるこれらの先導的行為を、どう説明できるだろう? おそらく、日本と西欧の経済に否定的な影響を及ぼすオイルショックが、三極の協力の必要性を鼓舞し、集まって未来の政策を調整することを日本と西欧に強いたということではないだろうか。

 特に第三世界に関連して、物価が上昇し、その解決問題が生じるというグローバルな状況を理解することは、極めて重要なことである。1800年代後半から、アフリカはヨーロッパの植民地支配下にあった。ほとんどすべてのアフリカ諸国が、ヨーロッパ主要各国から独立したのは、1950年代から60年 代までであった。アフリカは見て解くのに非常に有意義なケースである。というのは、アフリカは農業から原油、鉱物に至るまで多くの資源がとても豊富で、世 界中で使われる他の資源も非常に多種であるからだ。アフリカの国が、彼ら自身の経済を発展させ、彼ら自身の資源を使用して、彼ら自身の産業と企業をつくる ことができるならば、先ず第一に自給可能になるであろう。そして次に、世界中の台頭している産業およびエリート集団と対抗する、大きな競争相手になるかも しれない。結局のところ、ヨーロッパは資源の多くを持っていない。大陸の富が主にアフリカのような地域の資源略奪から来ていて、金融操作の指揮者になって いる。 復興して活発になり、そして経済的に独立することで、アフリカが成功すれば、西洋の金融的優位性の終わりを綴る事ができるであろう。「1960年~75年まで、アフリカの産業は7.5%の年率で成長した。これは、ラテンアメリカの7.2%、東南アジアの7.5%、に匹敵する。」[59] アフリカにおいて、「1960年~73年までの期間、工業化プロセスへのいくつかの重要なステップが見られた。」 しかしながら、「その工業化の劇的な減退が、最初の『石油危機』の後、現れ始めた。1973年から1984年までの間に、成長率」は急速に低下した。[60] 

 原油価格操作により、指数関数的に成長していて、あたかも無視できない競争相手になるかも知れないように見え始めていた第三世界の発展を操作できるのである。1970年代に2度のオイルショックがあった。73年と79年の2回である。価格上昇の後、世界の発展途上国は発展に必要な資金の確保のため、お金を借りる必要があった。

  産油国からの莫大なオイルダラーを預かった銀行は、利益を上げるために、それらをどこかへ投資することによってドルを「還流」する必要があった。銀行に とって幸運なことに、「発展途上国は、経済の工業化に役立つ資金が欲しくてたまらなかった。時として、発展途上国は石油消費国で、原油価格上昇に対応する ための融資が必要であった。また、時として、負債を伴う工業化という戦略に服従する決断があった。これは、国家が工業化に投資するためにお金を借りて、彼 らの新しい産業の利益でローンを返済しようとしたことを意味する。ローンは魅力的なオプションだった。なぜならば、その場合、外国の直接投資に随伴する外 国の多国籍企業の影響を受けないから、および殆どの国は自国の投資資金をほとんど持ち合わせていなかったからである。[61]


  原油価格上昇は、「世界金融の様相を変えた」のだ。「エネルギーの高い新しい時代に、第三世界の全てではないが多数の国は、輸入品の原油代金の支払いのた めのお金に大いに困った。同時に、西側の銀行は突然に、産油国から大量の預金を受け取った。論理的にも、また人道的に見ても、銀行はオイルマネーを還流す べきように思われた。」 ここで、三極主義がその正体を見せ始めている。「アメリカまたは西欧の1、2の主要な銀行が、発展途上国へのローンのために、い わゆる特大のシンジケートをまとめるために、電話で大量にパートナーを誘うことは、日常的な出来事となった。一部の銀行家は、ランチの間に、ブラジルまた はメキシコのための数十億ドルのローンパッケージの一部としての500万ドルから1000万ドルの契約をするための権限を秘書に与える機会を逃すことすら、非常に恐れた。」 興味深いことには、これらの銀行は次のように主張している。「海外への融資は、米財務省官僚とFRBによって奨励されていた。金融信用が毀損し、発展途上国が経済的にも政治的にも不安定になるのを、彼らは恐れていた。1976年、FRB議 長のアーサー・バーンズは、海外へ融資をし過ぎる銀行家たちに警告し始めた。しかし、彼はローンを制限するために何もしなかった。銀行家の殆どはその警告 を無視した。金融家達は、石油資源のあるメキシコや、豊富な鉱物資源を有するブラジルのような国々は、良好な信用リスクであると確信していた。」[62]
                            
 1973年のオイル危機前のFRBの レポートによると、「日本の民間金融システムは、他の世界から大きく分離されたままであった。そのシステムは厳しく規制されていた。」 そして、「さまざ まなタイプの銀行業務企業と他の金融サービス企業の活動範囲内は、法的にそして行政によって、各々に割り当てられた特定の分野に限定されていた。。」 し かし「1973年のOPECオイルショックは、日本の金融システムの活動の転換点となった。」[63] この転換点の一部として、日本銀行(日本の中央銀行)は、「大手銀行へ気前良く貸し出すことによって、通貨統制を」緩和した。「その結果は、財政赤字の拡大と急激なインフレーションであった。」[64]  日本銀行業務の海外市場への規制緩和は、国内の市場の規制緩和と手と手を取って進んだ。 それは相恵的な関係であった。というのは、日本の産業と銀行は外 国市場に、外国の産業と銀行は日本市場に、それぞれ参入できるようになった。これは日本の銀行を国際的に成長させ、今日、そのうちの多くが世界の最大手銀 行の仲間入りをした。これは、三極委員会の努力がもたらした結果だった。また、西側の銀行が「貧困国が西欧と北米で作られた商品を買うことができるように 融資した」ということは、三極間の協力体制の証拠でもある。[65] 

  また大変重大なことは、「新しい国際的な通貨協定が、ブレットンウッズシステムの下で享受していたよりも、国際的な通貨・金融交渉に対しての遥かにより強 い影響力を、米国政府に与えた。米国政府は、ドルの価格を自由に決定することが出来たのだ。国々は、国際的な通貨交渉を上手くやり遂げるために、英米金融 市場の発展にますます依存するようになるであろう。そして、これらの金融市場における動向は、財務省および連邦準備理事会(米国中央銀行)内の合衆国の公 的な筋の行動(および言動)によって変えられるであろう。」[66]ということであった。 この新しいシステムは、米ドルとウォール街の主要な関係者に依存しているので、ダラー・ウォール街体制(DWSR)と呼ばれている。

 最初の197374年の原油価格ショックへのFRBの反応は、金利を低くしておくことだった。それはインフレーション、ドル安を引き起こした。それは、銀行に発展途上国への莫大な融資、時には自己資本を超える融資を許し、奨励したところのものでもある。しかし、1979年の第2オイルショックで、FRBは方針を変えた。そして、最初のオイル危機の真相、すなわちオイルダラーの還流と融資が明らかになった

 






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最終更新日  2016年02月11日 16時17分28秒
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